雑感7
封印解除・謎解き・理解・道しるべ



はじめに
Introduction

超宇宙論
Super-cosmology

1. 旧基礎資料
 Old basic paper 1
  ・雑感
      My impressions 1

2. 旧基礎資料2
 Old basic paper 2
  ・雑感2
      My impressions 2


3. モデル概念の再考

  ・例示と解釈   
Illustration/interpretation
  ・例示と解釈2
Illustration/interpretation2
  ・未来予測 
  Future prediction
  ・解脱境完全ガイド
Deliverance perfect guide


4. 哲学的応用例

  ・般若心経解釈


5. 古代科学からのフォロー

  ・古事記「天地のはじ め」


6. 雑感

  ・雑感3

  ・雑感4

  ・雑感5

  ・雑感6

  ・雑感7


封印解除と道しるべ

封印解除に最も大事で有効なのは、謎の解明を通して至るところの「理解」をすることです。
この世には、この世でしか行えない、「筋道を立てて事態を把握する」という工程が必要なのでして、ただ漠然とでも理解した気になれる「夢の世界」とはいさ さか異なるのです。

また「理解」こそは、善悪の弁別が可能になる手法であり、この世でなくてはできない「把握」の仕方なのです。

これまた、善悪両方とも良いなどといった曖昧化は、厳に慎まねばなりません。そんなことをしていれば、いずれ何が善で何が悪かのけじめもつかなくなり、て いたらくする原因になるのです。
予定調和などという言葉も、それを使う人が予定調和に持って行けるならば、どうぞ遠慮なく使われたらよい。他人や神が何とかしてくれると いう意味なら、無責任なだけなので、おやめなさい。

この世界は研究者が立ち入る領域なのかも知れません。一般人はただ哲学的にこうであろうと直観できても、実際にその作用過程を見るのは、専門的な実験の場 においてであるようなものです。

特に私がこの世に来た理由は、研究のためであったに違いなく思います。
研究は、謎解きのことであり、謎解きの結果として「理解」が得られます。
理解とは、謎かけられた錠前を外し、解除することです。
だから、封印解除の王道は、謎解きと理解になること、お分かりか。

そうすることで、封印の犠牲者が心理的に救われます。
世には、謎という形で、多くの者が封印されています。
謎を解くことで、多くが救われているのです。
研究者には、謎のほうから胸襟を開いてくれるようになるのも道理。
私も救ってくれと、申し出てくれるのです。
そこで、それを兆候とかシンクロとか言って、研究者は道しるべとして貴重視します。

私の短い人生のおおかたは、緩慢な世俗的営みに費やされました。しかし、ライフワークの側の営みにおいて、必要な道しるべが随所に用意されていて、私は比 較的容易に目的のものを見つけることができました。

しかし、それでも推敲による「理解」ですから、基礎からの積み重ねが大事になり、私における「理解」は、どこまでも際限なく広がるとともに、ひとつの「理 解の連環」に収束していくのを感じています。

おそらく、しっかりとした「連環」が、私の中において確立された暁に、この研究は終わるだろうという予測です。
それも、もう間もなくという気がします。

そのアウトプットを、かつて「理解」の節目ごとに出版などしてきたように、有終の美として何らかの形で飾りたく思います。


この文書は、道しるべとして立ち現れた事項の側から、簡単にまとめます。

道しるべとしての母の伝説

私の人生における最初で最大の道しるべは、母にまつわる不思議話でした。もし、男として生まれていれば、位人身を極めただろうにと、それぞれ別の時期に現 れた二人の修験者によって祖母が示されたという話です。私は小学高学年の頃から、不思議な話だなあと感動していたのでした。母に英雄に対するような崇敬の 念さえ持ちましたが、そこにはいつも普通人の母の姿がありました。

またさらに、母は満5,6歳頃に、伝説上の動物「鵺」(あるいはスフィンクス)に遭遇しているらしいのです。私がその話の生き物に関心を持っていたため、 古典の教科書でまず見つけ、さらに英語の教科書に載るエジプトのスフィンクス像そっくりとの話になったのでした。

やがて複雑なことも考えられるようになってから、もし母が男だったなら、私はうまれていない、しかし生んでもらった、そこにどんな意味があったのだろうと いう思いにも至ります。タイムパラドックスの謎に十代の頃から直面していたのです。そこに、古代の不思議が加わるという具合でした。

それがやがて、ライフワークのテーマになっていきました。三つ子の心に植え付けられた、この世の不思議話。それはこの世とは何ぞやという謎と、その全容解 明に向けての探求心となって、ライフワークを支えました。


道しるべとしてのコンピューターメーカー勤務

私が三十歳になる頃に、この世界の裏側の仕組みとして、宇宙運行の仕組みの原理を、当時勤務していた場で習熟していた、コンピューターの動作原理を使って 表わすことに成功しました。
これは、コンピューターにどんな方程式がかけられてもよい汎用性のあるところがミソなのです。この世界の方程式は、いま最先端の科学者が凌ぎを削って見つ けようとしています。が、方程式がどう変わっても、基本原理は変わらずに対応できるとすれば、それによって三千世界とその多様性すら予見できます。

私は、世界の動作原理を見つけたことにより、それが私の信ずべき基本法則になりました。
不安神経症があったのですが、ものの見方が変わり大局観が得られたために、精神的不調が解消したのです。
むろん、宇宙論であるわけですから、途方もなく飛んだ話であるわけですが、この宇宙論は、コンピューターをモデルにするだけに、パラレルワールドなどの多 世界解釈を可能にするものになっています。
つまり、タイムパラドックスが扱え、私の幼児期から持っていた謎が解けてしまうのです。
もう今や、多世界が扱えない科学論は敗着になっていますから、30年も前になる当時にしてはいかに先見性に富んだものであったでしょうか。

しかし、モデルがコンピューターであるだけに、欠点もあります。すなわち、世を構成するすべてのアイテムは、事前にプログラムとして用意されているという 前提に立たねばなりません。この世がもし最初から最後まで宿命的に定められているとするなら、なるほどプログラムがあったとしてもいいでしょう。が、試行 錯誤を通して、別の可能性を探る生命だという観点からするなら、いかに冒涜的な考え方になるでしょう。

しかし、そうしているうちに、ハリウッド映画のマトリックスが出てきました。これはもうモロにコンピューターの中の電脳空間に閉じ込められた人々の話で す。それがなぜか人々の共感を得て、センセーションを巻き起こしたのです。人々はきっと、潜在意識的にそのことを知っているのかも知れません。
私はそこに、この宇宙モデル論の将来的な見込みの良さを知りました。しかし、マトリックスのように絶望的世界像というのは、この論の導くごく一面に過ぎ ず、むしろ全体を理解することで、釈迦の悟りに近い知恵にまで到達できるはずのものなのです。

道しるべとしての神話(ギリシャ、日本)や超古代史文献と海外のレイラ イン研究文献

私にはまだもうひとつの謎、古代の謎がありました。それを調べるのに好適なのは神話であろうと、おそらくスフィンクスなどの出てくるギリシャ神話から始め たのではなかったかと思います。そのだいぶ後になって、エジプトには巨大なスフィンクス像だけでなく、ファラオに懸想するようにして人面獣身の像が存在す ることがわかり、古代世界共通のキメラ動物ではなかったかの想いを持ったものでした。その同じ種族が日本にもいて、鵺と呼ばれたと。

そのようなきっかけから、日本神話の古事記の解読に取り掛かったようなことでした。超古代文明についての先賢の著書も読み、頭の中で整合性がとれるよう に、論の構築をいたしました。
そして、著した最初の出版物が「古事記と超古代史」でした。この著書の巻末に、超宇宙論を併せて置いています。

古事記神話は暗号化文献。その観点で接すれば、暗号がいっそう見えてくるものです。
当時は海外の話題としてレイラインがあり、友人も騒いでいましたから、もしかして日本にもあるのではないかと、高空から降りてくる記述のある「天降」の段 に語られる地名を暗号とみなして結べば、九州の直角二等辺三角形が意外と簡単に得られてしまいました。

道しるべは、畑違いのはずの人から贈られたW・バトラーの魔法入門だっ たこと

神武東征を歴史展開のカナメに据えて、畿内にレイラインを求めると、こちらでも次々と精度の高い幾何学図形がえられてくるという具合でした。
しかも、基本となる距離長には、地球の緒元の理解の跡が見られたため、そのような文明は、エジプト、メソポタミア以外に、私は知りませんでしたから、あち らからの文化の伝播へと推理していくことになりました。
とことんやらねば気が済まないのかと思いますが、浅学の身で幅を広げ過ぎると、密度の薄いものになり、アウトラインをなぞる程度になるかも知れません。

次なるアウトプット著書には、「カバラ」という言葉が欠かせないものになりましたが、決してカバラを熟知して臨んではおりません。そもそもカバラは、神秘 思想であるため、一般人には秘されているはずなので、概略程度で良かったのかと思います。

その知識の基礎を与えてくれたのは、私がコンピューターメーカーを辞職して直後に知り合った、埋蔵金伝説研究家の、まったく畑違いかと思われた贈与本の 「魔法入門」でした。その予備知識がなかったら、カバラという言葉も知らなかったでしょう。

またその入門書は、私の自己流精神修養の基礎にもなり、バトラーの示す呼吸法と、ピラミッド模型を組み立てて行う瞑想法を組み合わせたところ、光り輝く白 球が眉間から飛び込むという超常現象に遭遇したりしました。初心者にしてこれですから、真実の書と言うしかありません。

それがまたかなり後になって、吉村作治氏のエジプトのファラオはこのような体験をしていたというCG映像が放送されて、私のミニチュア化ピラミッドの中で 起きたこととそっくりなのに驚嘆したのです。

このように、私における道しるべは、これから起きることや理解へのガイダンスになっていることが多いのです。
それはいわば、昨今のRPGゲームの冒険ファンタジーの中に立ち現れる道しるべのようなものかも知れません。しかし、確実にそれは、一定のアウトプットが 求まるところまで導いてくれていることを実感しております。
その意味でも、拙宇宙モデル(コンピューターモデル)は有効であることが紛れもないわけですが。

道しるべは、様々なシンクロ現象と適時に知らされるネット情報

「魔法入門」には、カバラの修法の一環で、小さな五芒星とカバラの十字という追儺に使うシンボルが示されているだけで、その悪用形である逆五芒星の意味な どは書かれていませんでした。だから、畿内の逆五芒星を発見した時でも、決して悪い意味のものとは思いませんでした。むしろ、すごいものを見つけたという 達成感が支配的でした。

しかし、この著を世に出したのが1995年の阪神大震災の大災害を潜り抜けてのことだったこと。さらに二年後、1997年の酒鬼薔薇少年の残虐事件におい て、初めて恐怖することになった、邪神が支配する意味のバモイドオキなる図柄と、大江山の酒呑童子退治事件とのシンクロは、拙著を介してしかわからない謎 解きの様相を呈しておりました。この事件は、世の支配神(邪神)が、私の推理力を試しているかとさえ思えたものです。

それからです。私は自分の本名が、異界の扉を押し開けるという意味そのものになっていることを認めることになりました。邪神は、この戦慄すべき事件を見せ て、私にこれ以上立ち入るなと言っているようにも、また逆に、何か本当のことを知らせたがっているようにも思えたのです。もし後者であるなら、理解するこ とを通して、邪神自身にかけられた封印すらも解けるかもしれないと思います。

そこには、なまじする同情であっては意味がないのです。よく、相手のしたことを赦すというフレーズが使われますが、相手がそうするに至った経緯が理解され てなくてする単なる心情的な赦しであることがほとんどでしょう。それは自分のためにしている自己満足であって、トラブルを抱えた相手のためにしていること ではありません。

それでは理解したことにはならず、類似の事犯の再発は避けられないでしょう。ちゃんと謎は究明して明らかにしてこそ、理解したことになるのです。ただし異 界の要素の入らない地上的な解明は該当しないので、要注意です。
だから、 封印解除には異界を含む謎解きの課程と理解が最大の要件になると、私は思います。また単なる封印解除の儀式ではしたことにならず、ただそこに問題があるこ とを指摘するにと どまるのです。必要条件は謎解きであり、解除術は十分条件であるべきと私は思います。

そのせいでしょうか、邪神は私をまだ生かし続けています。私は邪神を悪し様に言います。が、彼は何かを私にまだ期待しているように思います。異界の壁が、 彼を見えなくしているだけなので、推理力でその壁を打ち破り、彼の胸襟を開かせることができたらと思ったりもします。
怪盗ルパンも、間の抜けた銭型警部がいてこそ、引き立つはずですからね。
いやいや、持ち上げすぎてはいけません。ヤツは邪悪の根元なのですから。

道しるべは、新神話協力者たちのもたらした情報

私は1999年12月に満五十歳になったのですが、それからなのです。私の周りに女性の協力者が現れるようになったのは。
まず、満五十歳になる直前日に初めてメールをくれた彼女を協力者Aとしましょう。
2000年7月に、別の彼女がメールをくれたのですが、それを協力者Bとしましょう。

私は1980年頃には、古事記の神話の解読を通して、これは精緻な体裁をした預言書であると認識していました。概略的ではあるものの、神名の意味するよう に、現実世界が展開している不思議さを見て取っていたものですから。

そんなときに、聖書などが実は神の計画書だといった情報を知ることとなり、預言とは神の計画のことなのだというのです。とすれば、古事記もまた預言なの で、神の計画だというわけです。しかも、神々の名で重みづけされているわけですから、いかに扱いに慎重が期せられたかがわかるというものです。

しかし、古事記にしても聖書にしても、神自らが執筆したわけではありません。たとえ神の指示で書かされたとしても、間に編者や作者が介在しています。
そこで、ずいぶんと不敬な発想ながら、作者自身の自由で神話を書いたらどうなるのだと思ったのです。
神々を俳優にして、作者が物語の展開を決めていくのです。

それが十分に可能であるという不思議現象を見たのは、2000年のことでした。協力者Bが持ってきた異界絡みの不思議情報が、現実世界で象徴的出来事とし て現れるという経験をしました。それは、我々がある程度達観した上で、神々のキャラクターを帯びて、神話としてシミュレートしたなら、現実は呼応して動く ということです。

そのときの神話は、すでに存在するものであればより強力に、そうでなく、新たに設定する神話であっても、神々の諸力を帯びるものならば、実働を始めると いうことがわかったのです。

それが確認できたことから、私は新神話なるものを書き始めました。協力者が随時、それを読んで、その行為が神界に届けられて、俳優の神々がそれをシナリオ にした神楽舞を舞うことで、理念は地上に垂迹し、現象化してくると見立てられました。その記載は2001年から本格的になりました。

ちょうど20世紀少年やデスノートのような現象誘導型のシナリオ書きなのでしょうが、何も怖い話を設定する必要はないのです。全編がハッピーでもいいので す が、問題は作者の煎れ込みがあるかどうか、作者にとって筋書きが面白いのかどうかが、たいへん重要になるのです。むろん、読者にとっても同じことと思いま す。

神話は現実を誘導する。それをもし、古代からやっていた者、やろうとしていた者がいたらどうなるでしょう。
現実の歴史は彼らのたなごころで転がされていくことになります。
それが神話作りの大目的になっているのです。

預言というものでもありませんよ。預言はどうしようもなく実現成就するものだと思わされたら、そこであなたは虜になるのです。

要注意です。神話はお伽噺?? そんなことは断じてありません。
人々には無価値に思わせておいて、改稿などさせないように謀ってきた者たちの陰謀に注意しましょう。