太陽と月の神話







曲名
アラディア


作詞作曲 
森野奥人・G氏






歌詞




1番

時は流れ
日々はすぎて
雲立つ空よ
風は巻いて
木の葉散らし
影立つ君よ

まだ見ぬ人よ
私の胸に
灯りを点して
去った人

ああ今日会うのね
限りある命に
ようやく巡ってきた
この時

ああ、これも青春
年を経た青春

2番

ネットの海
小船浮かべ
ただ待ちました
行過ぎるは
冷たい風
凍える心

待ち続けても
帰らぬ人と
思い固めて
幾年月

ああ今日会うのね
限りある命に
ようやく巡ってきた
この時

ああ、これも青春
年を経た青春












(リーランドの伝えた)「アラディアもしくは魔女の福 音書」に書かれている神話によると、主神はディアナと呼ばれるグレートマザー、大いなる女神である。ディアナは「あらゆる創造の以前に最初に創造され」、 「彼女の内に全てがあった」という。やがて彼女は自分の内から光と闇を分化させた。光がルシファーで、彼女の兄弟であり息子である。そして、彼女自身は内 部に闇の部分を保有した。
 注意すべきは、この「闇」は悪ではない。むしろ、陰 と陽のそれに近い、相互補完的な観念と唱えるべきだ。

 ディアナとルシファーは万物を生み出すものとなった。

 そして、光と闇は分化したままではなかった。「光を 掲げる者」のルシファーは地上に落ちたが、ディアナは彼と再び一緒になろうとする。ルシファーは地上の生命の中でも最も美しい「猫」を愛していたので、 ディアナは猫に化身し、彼と交わった。こうして生まれたのが、アラディアである。

ディアナが猫に化けていたことを知った ルシファーは怒り心頭となる。
そこでディアナはアラディアと相談し、ルシファーをな だめる歌を作って歌うことにより、ルシファーの怒りを鎮めたという。

G氏は、そのときのディアナとアラディ ア を夢見たようだと言った。

いま流れている曲は、G氏の夢の中に出 てきた古いイタリア風の二人の魔女の、音律のない言葉だけの歌の記憶を再現した曲である。
彼は、伴奏に流れるドシドレシラ・・・・・の魔女たちの発する言 葉を夢の中から記憶して持ち帰り、真っ先に私のところに訪ねてくれたので、それをDTMで再現し、それに似合いそうな曲と歌詞をつけてみたものである。


原始信仰におけるルシファーは、輝ける者、太陽のこと だった。
ディアナはその配偶者で月であり、生まれたのが魔女の ルーツ的神格アラディアという構図である。

そこにキリスト教が入ってきてこの 旧概念を排斥し弾圧 し、魔女狩りなどへと発展していった。
ルシファーは太陽の座をキリストに奪われ、金星へと強 制的に退去させられて、僭越な光を放つ者と貶められ、さらには悪魔へと貶められていった。そこには先住民文化の根強さと、それに業を煮やしたキリスト教の 執念の程が垣間見られよう。

つまり神々の世界における世界共通 の原初神引退神話が ここにも存在しているのである。
キリスト教にしてみれば、土着の宗教神話は排斥される べきものであり、いきおいルシファーは堕天使からさらに悪魔にされ、その妻や娘は魔女とされたわけである。

・・・やがて地上に人間が増えると貧富の差が生じ、富める者は貧しい者を虐げ残酷に扱った。富める者とはキリスト教徒であり、貧しい者とはペイガン(異教 徒)である。貧しい者(ペイガン)達は都会を追われ、田舎へと居住する。

 この状況に心を痛めたディアナは、娘のアラディアを 地上へと送り込む。
 こうしてアラディアは、「最初の魔女」となった。

 彼女は抑圧される貧しい者(ペイ ガン)達に魔女術を 教えた。彼女は貧しい者(ペイガン)には保護者となり、富める者(キリスト教徒)には恐るべき復讐者として働いた。

 やがて、アラディアは天に帰らな ければならなくな る。この時、アラディアはペイガン達に伝える。もし困ったことがあったら、満月の光の下に生まれたままの姿で集い、大いなる母に救いを求めよ、と。彼女は これを「ベネベントの遊戯」と呼んだ。ペイガン達は、この儀式のあと、三日月の形をしたケーキとワインで食事を取る。これはディアナの肉と血、魂を象徴す るいわゆる聖餐式である。これこそがサバトであるという。
 ここにおいて、「アラディア」では、こうしたサバト は断じて悪魔崇拝の儀式ではなく、被抑圧者の祈りであるとされていることだ。

あるいは
・・・ペイガン (pagan) とは 「非キリスト教徒」 や 「異教徒」 という意味を持ちます。今でこそクリスマスはキリスト教の行事として定着していますが、その起源はキリストの生まれる遥か昔まで遡ります。
キリスト教が布 教される前のヨーロッパでは、人々は自然の中の神々を信仰していたのですが、彼らはキリスト教の布教につれて、ペイガンと呼ばれて圧迫されるようになって いきました。

キリスト教はペイガン達を改宗させるために、ペイガンのお祭りをキリスト教の中に取り入れて行きました。季節ごとに自然の中の神々を祭るペイ ガンにとってのクリスマスは、もともとは冬至のお祭りでした。太陽の照る時間が最も短くなるこの日、ペイガン達は、火をともして太陽の復活を祈り、常緑樹 を飾って来たる春の豊作を願ったのです。常緑樹の枝や粘土で作った人形をプレゼントし合ったりする慣習もありました。キリスト教はこうしたペイガンの慣習 を取り入れつつ、この日をイエス・キリストの生まれた日として祝うことにしたのです。 キリスト教のもうひとつの大きな祝祭であるイースター (復活祭) も、もともとはペイガンの春分を祝うお祭りでした。

私は、毎年鞍馬で行なわれるウエサク祭(満月祭)のルーツに、アラディアの提案「ベネベントの遊戯」が存在するのではないかと思っている。鞍馬に祀られる のは金星王サナートクマラであり、いったん僭越な光を放つ者として貶され金星に退去させられたルシファーのことでもあると推理している。

歌詞のすぐ下に置いた木彫り人形は、第一番目の女性がハワイ旅行の懸賞を当て、私に何かお土産をしたいというので、新神話で必要となっていた乙姫の玉に見 立てられる丸い石を所望したところ、中国民芸店でトパーズ玉、欧州民芸店で上の人形を買い求めて贈ってくれたものである。
この女性には一度もルシファー神話をしたことがないのに、偶然お店にあったこの人形を選んだとのことで、その偶然の一致に、偶然ならざるものを感じ取った 私だった。

また、月を体現すると言って去っていった二番目の女性が作った神話がある。それをここに紹介しよう。

悠久の昔、空には一つの大きな太陽と、七つの月があった。太陽は月を愛し、月たちは太陽にあこがれ一緒に昇るので、昼はまぶし過ぎ、地面は熱に焼け焦げ、 夜は無明暗黒の凍結地獄。せっかく生まれたばかりの植物や、動物たちは、どこまでも広がる砂漠のなかで死に絶えていった。


見るに見かねた太陽は、
「創られた者たちを守りたい、どうか私に近寄らないで おくれ。」
と月たちに頼んだ。ところが、太陽に嫌われたと誤解し た月たちは、われさきにと自分を競い、手練手管で太陽に迫った。月の色香に迷った太陽は月を抱き締めようとしてぶつかり、大爆発を引き起こした。暦はその たびに書き換えられ、歴史は消えていった。

最後に残った月は言った。
「あなたと一つになりたいわ。でもわたしがあなたに なってしまったら、たった一人でこの空を照らし続けなくてはなりません。どうしてそんな孤独に耐えられましょう。それにもしわたしが消えてしまったら、弱 き愚かな者たちに真の闇が訪れてしまいます。」
彼女は夜の国に去っていった。

別れのしるしに、彼女は小さなからだをもらった。旅が はじまりそしてそれは果てることなく続いた。雪は彼女を閉じ込め、闇は傷つけた。しかし彼女は祈り続けた。決して自分自身は見ることの無い、夜明け、太陽 の光が生きとしいける者たちに降り注ぐときの訪れを。