物語 |
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《梁吉祖父の還暦祝い》 私が十五才のとき、池田梁吉祖父の還暦のお祝いがあり、 祖父からその席での客のもてなし係を務めてくれるよう言われました。 宴席は、六畳間三つの仕切りを取って並べた大広間に、祖父を中央にして、 左右に一列づつ、お膳がきれいに並べられていました。 お祝いの初日に、その左右の座に座っていたのは、 羽織り袴か、もしくは新来の背広上下に身を包み、髭をたくわえ、 手にはパイプを持った貫禄ある紳士ばかりでした。 それもそのはず、沼隈郡の郡長、千年村の村長、村会議員、 学校長など主立った面々が、威儀を正して座をしめていたのです。 私の見知った顔も、いくつかありました。 宴会が始まると、私は隣村の校長先生と共に、お酒の給仕をしました。 初めてのことだったので、校長先生の見よう見真似で お客の一人一人にお酒をついで回ったのです。 ところが、お客の一人一人から、必ずお酒の返礼があるのです。 これには困りました。 祖父は何も助け船を出してくれないし、断るすべを知らない私は、 しだいに酔ってきましたが、けっこう飲める質だったのかも知れません。 宴も盛り上がった頃、祖父が、「はっちゃん、 なにか一つ皆さんのために唄ってさしあげなさい」と言われました。 かといって、流行歌など知らない私は、 無理なことをおっしゃるものだと困りましたが、 即座に軍校で覚えたての「荒城の月」を唄ってみせました。 すると、座のお客は静かになり、唄い終わると、 万座の拍手と賞め言葉が返ってきたのです。 気を良くしてしまった私は、もう一度皆さんにお酒をついで回りました。 すると、今度はお酒ばかりか、一人一人が和紙に 五十銭銀貨を入れて花を作り、私に持たせてくれました。 そうこうするうち、私は酔っ払ってしまい、 気が付いてみると翌朝の布団の中でした。 起き上がると、枕元には、お盆いっぱいに膨らんだ花が置いてありました。 祝宴の二日目も、同様に左右一列づつの宴席がこしらえてありました。 ところが、私は今度ばかりは不思議な光景を目にしました。 下座からみて左側の宴列には、ちゃんとした背広姿の紳士が並んおり、 右側はシャツ姿あり、はんてん姿ありで、色もさまざまでした。 祖父は、もう唄わせようとはしませんでしたし、 私も今度はお酒を慎みながら、無事大役を果たし終えました。 三日目は、祖父の親戚一同が集まっての宴会が行なわれました。 私は、祖父に気に入られていたためか、祖父のすぐ隣に座っていました。 そこで、私は昨日のあまりに対照的な光景のわけが知りたいと思い、 聞いてみたのです。 「お祖父さん。 少し聞いてもいいでしょうか」 「おお、よう聞いた。 何を教えてやろうかな」といつもの調子。 こうして私は、次のような事情を知ったのです。 左側に並んだ紳士たちは、祖父が仲人をして結ばれた家の主人たちで、 右側の人々は、祖父が警察に掛け合って、罪に服する前に助け上げた 犯罪人たちだったのです。 このころ、人の物を盗んだりする人というのは、今とは大違いで、 たいがい生活に行き詰まった人でした。 職がなかったり、あっても家族が養えなかったりして、 仕方なく犯罪に及んだものでした。 警官が彼らを捕まえると、傷害や殺人などのよほどの場合は別として、 まず必ず祖父のところに連れてきたのです。 そして、祖父が、「お引き受けしましょう」と言うと、 警官は、「お世話になれよ」と言って、 犯人に付けられた腰ひもを解いて引き渡したのです。 というのも、長年こうした場合には、祖父が犯罪人の身柄を引き受けており、 当面の生活費を与えるばかりか、職さえも祖父が身元保証人になって 世話してこのかた、再び問題を起こしたためしがなかったからでした。 祖父は、そんな彼らを普通の人と同等に扱っていたのです。 《高田新四郎氏の成功》 梁吉祖父は、毎日のように朝の決まった時間に外出し、 夕方に帰ってきました。 出掛けるときの出で立ちは、中折れ帽をかぶり、 キセルなどの品々を入れた革袋を腰に下げ、ステッキを持った姿でした。 私は、祖母と伯母がともに玄関に出て、 見送りのあいさつをなさるのを見ながら、 「いったいお祖父さんは、何をなさってるんだろう」と思っていました。 そこで、また聞いてみたのです。 明治二十五年頃のことです。 この地方に、ヤマヒという屋号の、 高田新四郎さんという、畳表の問屋を商う人がいました。 彼は、祖父からいろんな助言を受けて成功を収めた一人でした。 助言というのは、主として、畳の材料の仕入や品質に関するものでしたが、 次のような一風変わったものもありました。 あるとき、祖父は新四郎さんに時の総理大臣が変わったので、 早々上京して総理大臣に会っておくよう助言しました。 ところが、このとき新四郎さんは、少し前に亡くなった母親を祀るために、 京都のとある仏壇屋の、間口一間もある、桐材とふんだんな金箔、 漆で作られた仏壇を手に入れようと、脇目もふらずの交渉の最中でした。 その値段は、三百八十円で、仏壇屋がびた一文まけられないと 豪語するほどの、またとない絶品でした。 (当時の一円は今に直すと一万円以上の価値になりそうです) 事情を新四郎さんが話すと、祖父は、仏壇のほうはこちらに任せて、 ぜひ総理大臣に会ってくるように勧めました。 そこで彼は、そうすることにして旅立ったのでした。 新四郎さんは、上京するとすぐ最高級のホテルをとって、 早々に官邸にあてて、二人引きの人力車を走らせ、 会ってもらおうとしましたが、総理大臣は多忙ということで 会ってくれません。 次の日も、また次の日もそうでした。 しかし、一旦上京したかぎりは、必ず会わねばの一心で、 まったく同じやり方で訪問を重ね、 ついに十八日目に、わずかに三十分間だけ面会できました。 そして、満足して帰途に就いたのです。 祖父のほうは、新四郎さんが上京したその日に、京都に向かっていました。 そして、例の仏壇屋におもむくと、高田新四郎の代理で来た用向きを告げ、 「三百八十円の仏壇は、今日私が値をつけるから、 気に入らなかったら売ってもらわんでもよろしい」と言って、 間口一間の仏壇の前に立ったり座ったりして、しばし調べていました。 そして、店の主人を呼び、この仏壇は、この大きさの桐が何枚、 金箔と漆がどれほど、工手間がいかほどで、店の利益をこれぐらいとして、 都合八十円ではいかがかと逆見積もりしたといいます。 どうであったか、仏壇屋の主人は何も言わずに「どうぞこちらへ」と言って、 奥座敷へ通して、よも山話をしだしました。 しばらくして、山海の珍味のご馳走が運ばれ、 主人は祖父に、「どうぞ、召し上がってください」と言います。 祖父は、「私はご馳走をよばれに来たのではないから、 どうぞ仏壇の話をしてくれませんか」と言いますと、 主人は、「仏壇を売って十一代目になりますが、 これだけ正確に値を付けた人は初めてで、 この値でここから備後まで持って行ってさしあげましょう」とのこと。 こうして、その日のうちに仏壇は船で川を下り、 海路をたどって、四日かけて沼隈に着きました。 そこで祖父は、船での荷送り賃を一日一円とみて、 都合八十四円を持って帰したといいます。 新四郎氏は戻ってみると、自分の屋敷の用意していた場所に、 例の仏壇が納まっていたのでびっくりされたとか。 驚きは、そればかりではありません。 一年後、彼のもとに 八万枚の畳の注文が入ったのです。 注文主は、北海道庁でした。 というのは、総理大臣が北海道庁におもむいた折、 宿泊所や宴会場の畳があまりに黒ずんでいたので、 長官に何とかするよう指示を出したが、 北海道には良いものがないという報告しか得られなかったそうです。 そこで、総理大臣の口を突いて、 たまたま高田新四郎氏の名前が出たというのです。 こうしたことがあって、新四郎さんの名は一躍高まり、百万長者となりました。 そして、祖父の勧めで、土地を買い、大地主となりました。 彼は、祖父に事業の大番頭になってくれるよう頼みましたが、 祖父は年令のこともあって断り、 そのかわりたくさんある土地の見回りと管理をしようということになりました。 このために、祖父は、毎日のように外出していたのでした。 その合間をみて、かつて罪を犯した人たちの暮らしが うまく言っているかどうか、様子を見回っていたのです。 行くたびに、芋や野菜を持っていってやり、当面の金に困っているようなら、 書き付けなしに金を貸したりもしておられました。 《希代の知恵者》 明治三十七、八年頃の話です。 村に小学校を建てる話が持ち上がり、 どれぐらいの費用が掛かるかで、村議会は白熱しました。 どうしても、みな多額の費用を考えがちでした。 だが、祖父はきっぱりと、「五万円でできる」と言い切ったものだから、 やりとりはごうごうと続き、とうとう大阪から工学博士の先生を呼んで、 見積もってもらおうということになりました。 物々しい出迎えの中、工学博士の先生はやって来られ、 三日のあいだ逗留するうちに、五万五千円の見積もりを出しました。 いよいよ最終決定するための村議会の当日になりましたが、 待てど暮らせど先生は現われません。 旅館には、お迎えが走りました。 やがて戻ってきた者の報せで、先生は一通の書き置きを残して、 日当も受け取らずに大阪に引き上げられてしまったことがわかりました。 書き置きには、「貴殿の村に、これほど正確な見積もりをする人がいるとは 思わなかった。 私は完成後に祝宴をはるための費用五千円を 加えておいたのです」といった内容が記されていたそうです。 貧乏な村の予算では、五千円といえどもたいへんなところ。 祖父は、それを 救った形になりました。 でも、この先生も誠実な人だったと、私は思います。 また、こんな話もあります。 その当時、天皇は現人神として崇敬されていました。 大正三年のことでした。 天皇の御神影(お写真)が初めて村に お越しになることになり、お出迎えのため、村長、村会議員、 校長、そして祖父らは、人力車の列を仕立てて、駅に向かいました。 村長をはじめとするほとんどの人は、立派な礼装をして駅に立ったのです。 ところが、祖父だけは、木綿の紋付はかまに、 わら草履という出で立ちでした。 それを見た一行が、はじめ小声でがやがや騒いでいましたが、 ついにその格好を見とがめた村会議員の一人が、 皆の見ている前で、「いともかしこき御神影をお迎えするのに、 そのみじめな格好は何ですか」とか言ったそうです。 ところが、祖父はすかさず、 「皆さんの着ているものは、確かに立派そうに見えますが、 結婚式はまだ良しとしても、葬式にも幾度となく 着て出られたものではありますまいか。 しかし、私は、この日この時のために、上着はもちろん、 ふんどしに至るまで、すべて新調してきておるのです」 と答えたので、とたんに立場が逆転してしまいました。 はじめ、村長が御神影を受ける段取りになっていたものが、 急遽、一番見すぼらしい祖父に、予期せぬ村代表の受け取り役が 任されることになってしまったのです。 とにかく、この時代の先生といわれる人たちは、物ごとの道理がわかり、 自分の非はあっさりと認める一途で素直なところがありました。 だから、人々の尊敬を集めることもできたのだろうと思います。 《国会議員、井上角五郎先生》 私は、梁吉祖父の御供として、見知らぬ家を何軒か 付いて回ったことがあります。 私は、どの家でも玄関の外で待っていたのですが、 中から聞こえる大きな声や笑い声の中に、 「井上角五郎をどうかよろしく」と言う祖父の言葉が耳につきました。 私は、それにどういう意味があるのか聞いてみました。 祖父は、よしそれでは家に帰って話をしてやろうと言われ、 いつもの長火鉢の前で、キセル煙草をくゆらせながら、 次のような話をしてくれました。 梁吉祖父が寺子屋に通っていた頃のことです。 (だから、ここでは 梁吉少年としましょう) どのような経緯でか知れませんが、屋敷の離れに一畳の土間の付いた 六畳間があって(それは、祖母の時代にもあったとのこと)、 そこに梁吉少年よりいくつか年上の「角やん」と呼ばれる少年がいました。 彼は、貧しい農家の五男坊ということぐらいしかわかっていません。 池田家では、そのとき四頭の牛を飼っており、角やんは、 毎朝梁吉少年と共に、牛を二頭づつ手分けして裏山へ追い、 草を食べさせ、夕方また共に連れて帰るという仕事をしていました。 梁吉少年は、受け持ちの牛を山に連れていくと、後の面倒は角やんに任せ、 その足で寺子屋に向かい、それが終わると牛を連れ帰りに 山に登ってくるという毎日だったのです。 角やんは、毎日寺子屋へ向かう梁吉少年の後ろ姿を見て、 何とかして自分も本が読めるようになりたいと思い、 そこである日角やんは、梁吉少年に頼みました。 「梁吉さん。 頼みがあるんじゃ。 この俺に、字を教えてくれんかのう。 そうしてくれたら、朝晩の牛追いは、全部自分でやるで、どうじゃ」と。 梁吉少年も、負担が減ることを喜び、 「よし、そういうことなら、教えてやる」と承知しました。 梁吉少年は、地面の平坦なところに、木切れで平仮名とカタカナを、 毎日いくらかづつ書いて教えたのです。 ところで、角やんは、月の一日と十五日が公休として与えられていました。 今とは違い、その当時はどこでも奉公人に休暇を取らせることは、 きわめて稀でした。 角やんは、せっかくの骨休めの休暇でしたが、その日が来ると決まって 早朝から腰弁当をして福山までの三里の道程を早駆けしました。 そして、何をするかというと、決まって福山駅前にある本屋に入るのです。 そして、朝から晩まで、本屋の棚にある本を、憶えたての 平仮名、カタカナと照らし合わせながら、 きわめてゆっくりでしたが読破していったのです。 そして、夕方、日が陰りかける頃になると、これまたいつものように 「ああ、今日も買って帰るほどの本はなかったのう」と、 捨て台詞を一つ残して出ていくのでした。 本屋の主人は、また今日もか、と思いながらも、その熱意には 多少の好感を持っていたに違いありません。 文句一つ言いませんでした。 そんなことがどれほどか続いた頃のことでした。 この本屋は、井上書店といいましたが、その主人の娘がちょうど適齢期で、 親が、親戚が、また知り合いが、代わる代わる、今度は どこの学校出の秀才だとか、どこの豪士の息子だとか言って、 縁談を持ってきたのでしたが、娘は頑として受け付けません。 業を煮やした主人はとうとう、「そんなにどれもこれも、 よく見もせずに断り続けるというのは、誰か他に好きな人でもいるのかい」 と娘に聞きますと、「はい」というではありませんか。 呆気に取られて、「それは、どこのどなたなのかね」と聞きますと、 「月の一日と十五日に来て、朝から晩まで本を読んで、 何も買わずに帰る人」 と答えたので、それがどこの誰かもわからないという理由で 家の中は大騒ぎになりました。 しかし、主人は、「よし、その人がどうおっしゃるかは知らないが、 会って話をしてみよう」と、次の角やんの現われる日を、 威儀を正して待ったのでした。 当時は、歌の文句にもあるように、情熱を以て書物を愛読する人が、 若い娘の憧れだったのかも知れません。 角やんにとっては、降って湧いた縁談それ自体もそうですが、 本屋の若旦那として、だれ気がねなく本が読めることのほうが 嬉しかったに違いありません。 角やんは一も二もなく承諾しました。 彼は、婿養子井上角五郎となり、読書の情熱は、なおも続いたといいます。 そして、やがて村長になり、市長を務め、 さらに政友会から国会議員として立ちました。 そして、私が御供して行ったのは、祖父が井上角五郎氏の 第何期目かの立候補の選挙応援のため、有力者の家々 (当時は、国税を納める人だけに参政権がありました) にお願いに上がっていたというわけなのです。 道理で、どの家も立派な造りをしていたわけで、祖父はこのため 福山、尾道、呉、広島などを飛び回っていたのです。 梁吉祖父は、付け加えてこう言いました。 「昔は、わしのほうが角やんより偉かったんだが、 今では逆に角やんのほうが偉くなってしもうて、たびたびわしは 先生の腰ぎんちゃくとして、御供させてもろとるんじゃ」と。 そこには、普段笑わない祖父の満面の笑みがありました。 《保助大祖父》 梁吉祖父は、もとは京都御所や東京の宮内庁に奉納する 畳表の検査官を務めていました。 京都御所に奉納する畳表の注文が勅命でなされたことがたびたびあり、 そうしたときには全国から選りすぐりの職人が、松永の四宮神社に集まり、 白装束に身を固めて、それぞれに畳表を結っていき、 その中でいちばん良いものを奉納する習わしでした。 通常の畳表であれば、一枚あたり六百匁で良いのですが、 ご用達のものは、倍の一貫二百匁の密度が要求されました。 それを一日およそ三尺の割りで精魂込めて作り、出来上がったものを 祖父が重さ、長さ、むら、傷の有無などを調べ、承認するのです。 こうしてできた畳の一枚づつは、出荷されるときには、 五色の色紙で飾られ、松永駅まで丁重に人力で運ばれ、 菊の御紋の貨車に積まれて、京都へと向かったのです。 それから少し後のことでした。 明治天皇直々のご要請で、 畳表の出来ばえの良さに、検査官の親の顔が観たいということで、 急遽大祖父にお召しがかかったのです。 しかし、大祖父の保助さんは、 そんな畏れ多いことはようしませんと辞退してしまったといいます。 ところで、保助大祖父もたいへん世話好きな人徳者でした。 人のためになることなら、頼まれもしなくともしました。 裏山の木の枝の伐採に、きこりが入っていったことを知った大祖父は、 わざわざハシゴを担いで山に登り、何もなしでは危ないから、 これを使うようにと頼んでみたり、家の前の灌漑用池の堤防の補修に 人が出たと知ると、「腹が減ってはいくさも出来まい」と、 弁当を家人に作らせ、持って行かせたりしました。 乞食が、家の前に物ごいに現われることもあり、 家人も気よく、一升舛にすりきりの米を渡そうとしましたが、 大祖父はそればかりでは気に入らず、 必ず山盛りにして持っていかせました。 こんなふうだったので、家を訪れる乞食はひきを切らなかったそうです。 保助大祖父は、まんまるな顔で、額の真ん中に赤黒い疣があり、 常々笑いを絶やさなかったので、 まるで大黒さんのようであったことを憶えています。 そして、一生涯病気らしい病気をしたことがなく、 薬を口にすることがありませんでした。 あれは、大祖父が亡くなる二日前のことでした。 私は、何気なく こんなことを聞きました。 「お祖父さんは、薬はお飲みにならんのですか」と。 すると、「薬というものは、たいそう苦いものだと聞いておるが、 今まで一度も口にしたことがない」とおっしゃいました。 そして二日後の夕方、このとき私は居合わせなかったのですが、 大祖父は近くで宴会があって、夕食を食べて帰られると、 家人に「寝床を引いてくれんか」とおっしゃって、隣の部屋で横になられた。 ややあって「今みなは、何をしてるね」と聞かれたので、 大祖母さんが「今私は、夕食を食べていて、 ご飯の二膳目に箸をつけたところです」と答えると、 「そうか、ゆっくりおあがんなさい」とおっしゃる。 が、その後すぐに「お婆さんや・・」という声が聞こえたので 行ってみると、すでに息がなかったといいます。 報せを聞いた梁吉祖父は、大至急、昵懇にしていた福山病院の 院長先生を呼んで大祖父を観てもらいました。 先生はしばらくして、お悔やみを言うどころか、 「この方は、寿命を積み切って亡くなられておるのであって、 むしろ赤飯を作ってお祝いせにゃならんですよ」と言う。 それで、当日の夜は親族を呼び、お祝いのご飯を作るために 赤はんてんを着て、一斗樽を鏡割りして杓で飲みつつ、 みなで代わる代わる「とぎ米」をついたのでした。 保助大祖父、享年八十四歳。 この当時、八十才を超える長寿者はきわめて稀でした。 この伝えを聞いた隣村からも、大祖父にあやかりたいと 主だった人々がやってきて、葬儀は大規模なものになりました。 出棺して、家の裏の墓場までのおよそ三町ある道程を、 葬列は途切れることなしに進んでなお、 最初に出た人が墓場に着いた頃には、まだかなりの人が 会場で出発を待っている有様だったと、私は記憶しています。 また、話はだいぶ後になりますが、梁吉祖父は中風で倒れて、 その一週間後に亡くなりました。 そのとき、かつて祖父から金を借りていた犯罪人たちの七割の人が、 祖父の倒れたことを知るとすぐに金を返しにきました。 借用書などの書き付けは一切取っていませんでしたが、 祖父の手帳に借り主とその額が書いてあったので、 それがわかったのだそうです。 祖父はすでに、「たとえ金を返しにこなくとも、それは生活に 困ってのゆえだから、決して催促をするな」と言い残しておられ、 その遺言はきちんと果たされたのでした。 はつの祖母の思い出/完
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