最終章 永遠の誓い
後継者に最高阿曽女の座を譲ったミユは、七十四歳となりました。
隠居して暇になったのを機会に、鬼の城にある想い出の地に向かいました。
若いころに長い道程を歩いて鍛えた足は、老いなどまだまだの感があります。
それでも山道を行く段になると、ふもとの地元民が、これをお使いくださいと提供してくれた杖を片手にしながらの道行きとなりました。
<ノボ。姿を現わさなくなって長いけど、どうしているんです?
もう、次の生を受けてしまわれたのですか?
いま、あなたと来た道を引き返そうとしているんですよ。
来る時は二人でしたが、帰りは一人になりましたねえ>
ここ一両日のうちに、満月の日が来ることになっています。
もちろん、元の世界に戻って生活できるとは考えていません。
帰って居ついたとしても、カルチャーショックは、やはり老いの身には堪えるでしょう。
せっかくの機会なので、もとの世界がどうなっているか、ちょっぴりのぞいてこようというのです。
<私も、喘息がひどくなりました。
足はこんなに丈夫なのにね。
わずかな坂に、息切れしてしょうがありませんよ。
ノボ。長生きもたいへんです>
小さなお社で、長年薪で釜を焚き続けてきたのですから、肺もかなり傷みました。
寒くなると、決まって咳き込むようになりました。
いまは暑い時期ですから、なんとかこうもしておれるのです。
やがて、目的地に着くころには、とっぷりと暮れておりました。
<ちょうど今頃の暑い季節だったですね。
子供のときには、もっと遅い時間に出て、じゅうぶん明るいうちに着きましたのにねえ。
やはり若さにはかないません>
満月が南の空に昇ります。
あの祠のトンネルがいつ開くかは分かりません。
計算の仕方を知る頼みの綱のノボはいませんから。
でも、直感は正確でした。
月の光は、まともに奥の壁に射しこみ、みごと壁は光り始めたのです。
でも、もう一つ問題はあります。
どこの時代と繋がってくれるやら、分からないのです。
しかし、ミユには、そのような知識はありません。
ノボが言っていたように、もとの世界に辿りつくに違いないと思っているのです。
<ああ、私がここを通るのは、これが二度目ですよ>
ミユは、あの時の恐怖を思い出し身震いするも、光の中に身をかがめて滑りこみました。
光の輪は回転し、バランスを失ったミユは、来た時と同様、気を失いました。
目を覚ますと、そこは鬼の城の同じ祠の前でした。
強い日差しの朝日が、ミユの身体を直射していました。
なんとその場所のきれいに整備されていること。
吉備のころにあった石組みは残されているも、記憶していた場所になかったりする石もたくさんあります。
<ああ、ここにあった要石はどこに行ったんですかね。
きっと必要ないと思って外したんでしょうか>
復元された石組みもありますが、元のものとは色合いも違って見えます。
つい、ミユは微笑んでしまいました。
<どうやら、戻ってきたんですねえ。
でも、来た時とはかなり様子が変わっていますよ>
ミユは、持参した杖を頼りに、とことことふもとに向けて歩き出しました。
人と行き違います。
やはり現代人風の着物を着ています。
子供のころのことを思い出します。
<ああ、こんな格好の人もいましたかねえ>
ミユは、親しげに声をかけてみました。
しかし、出した言葉が違いました。
「スンンクトマエャォホ(あのう、ちょっとおたずねしますが)」
その人は、ミユの着ている衣装と、その話し言葉にギョッとした風で、両手を前に出して分からないという合図をして、慌てて去って行きました。
着ている服が、黄味を帯びた白くてきめの粗いガウンのように見え、意味不明な言葉に、気が狂っているか、異邦人のように思ったもののようです。
<ああ、しまった。元の言葉を思い出しながら話さねば・・。それにこの着物では・・>
こうして、昔覚えていた言葉で、片言でなまりながらも話すよう心がけ、人から道を聞きながら、元あった父母の家の近くまで行くことができました。
しかし、そこには鉄塔が建っているばかりです。
<お父さんもお母さんも、もういないみたいですね>
ノボの元あった家のあたりに行くと、大きなビルが建っています。
マンションなのでしょうか。
<いま、いつ頃なんでしょうねえ>
いろいろ調べてみなければと、むかし市役所のあったあたりを目指します。
そこはもう、がらっと変わったカラフルなビル群が林立しています。
道には丸い天道虫のような格好のカラフルな車があふれています。
大きな道路の向こう側に渡ろうとするのに、横断歩道がありません。
しかも、道と歩道は、ガードレールのようなもので仕切られています。
<これでは向こうに行けないじゃないですかね>
ミユは、これぐらいなら平気と、ガードレールをまたぎました。
そして、車の少なめになった時を見計らって、中央分離帯まで早足でかけました。
後ろから、「おいおい」と言った声は聞こえましたが、そのようなものに構っておれません。
子供の時によくやったように、やったまでです。
危ないながらも、いささか狭い分離帯に達しました。
しかし、それからがたいへん。
ミユは、目的の対岸までの道路を走る車の多さに困りました。
<これはいったい、いつ途切れるのでしょうかねえ>
元の歩道を見ると、けっこう大勢の人が集まってミユの方を見て、何やら騒いでいます。
ところが、そこから一人の少年が、ガードをまたいで車をかわしながらやってくるではありませんか。
また後ろの大人たちは、しかめっ面をして、少年を大声でいさめている風です。
「おばあちゃん、危ないよ。向こうに渡りたいの?」
ミユは頷きます。見ると、少年は、ノボににています。
ただ、坊主頭ではなく、長髪にしているために可愛く見えます。
「あんたは、ノボかい?」
「ちがうよ。ワタルというんだ。それより、ぼくに付いておいでよ。
向こうに渡れる地下道があるからさ」
「はいはい」
ワタルは、要領よく、車の流れを止めました。
「さあ、いまのうちだ。早く、早く」
ミユは、すたすたと渡りなおしましたが、急いだため、やはり息が切れました。
大人たちが、不平を垂れながら暫時去って行きます。
ワタルは、彼らを怒り顔でにらみつけていました。
「さあ、こっちだよ」
「おばあちゃん、ちょっと疲れたよ。一休み、させとくれ。
それより、あんた、ひとつ教えておくれかい?」
「いいよ」
「いま、昭和何年かね」
「昭和?えーっ、だいぶ前の年号だね。いまは西暦だけになってるよ。西暦2025年さ」
「はあー、そうかい。とすると・・・私が生まれたのが1951年だから、ああ、七十四年だ」
「おばあちゃん、なに言ってるの」
「ああ、なんでもないよ」
<ノボ。私が、もしここにいたらどんな生活だったんでしょうね。
もしかしたら、この子ぐらいの孫がいたのですかねえ。
あなたの孫ほどに似てますし>
「それがわかったら、もう特にしなくてはならないことはないんだよ。
そうだ、あんた。
このおばあちゃんを、ほら、あそこに見える山まで送っておくれでないかい?」
「いいよ。あの山は、よく登ったことがあるんだ」
そういうわけで、二人連れの道行きとなりました。
ゆっくりと歩くので、話も交わします。
「あんた、お父さんやお母さんが好きかい?」
ワタルはうつむき加減で、頭を左右に振りました。
「きらいだ。大人なんてみんな嫌いだ。規則ばっかり強制してさ」
「学校は?」
「きらい」
「ほっほほ」
「なにがおかしいの」
「いや、ごめんよ。私もそうだったんだよ」
「おばあちゃんもか」
「はいはい」
しばらく行くと、ワタルのおなかがぐうと鳴りました。
「あんた、おなかすいてるんだろ。おばあちゃんが、ご飯おごったげよう」
「ほんと?」
「そうだよ。ほら、こんなに持ってるからね」
ミユは、こっちの世界の記念にと持っていた5000円ほどの入った小さな麻袋を取り出しました。
「おばあちゃん。これ何?」
「あわせて5000円ほどあるよ」
「ちがう。こんなお金、見たことないよ。この絵は聖徳太子だね。でも1000円てなってる。あっ、これって旧いお札だ」
「そ、そうなのかい。では、いまは使えないのかい」
「このままじゃあだめだ。でも、ぼく知ってるとこある。
きっと値打ちがあるから買ってくれるよ」
こうして、アンティークショップと表示の揚がったお店に行き、旧い紙幣や硬貨を買い取ってもらうと、十分おいしいものが食べられるほどのお金が手に入りました。
「じゃあ、おごってもらうよ」
「ああ、いいよ」
お店はすべて、自動です。
ワタルにいいとこがあると連れて行かれるままに、ミユはともに食事をしました。
「ここは、この辺りではけっこう安い店なんだ。
いまどき、現金払いなんてほとんどないけど、これだったらじゅうぶんお釣りが来るよ。
けっこうお金持ちだよ、おばあちゃんは」
ほっ。聞いたことのある言葉です。
<お金持ちだって? ノボにも、むかしこんなこと言われましたねえ>
ミユは、思わずほほっと笑いました。
「そうだよ。おばあちゃんは、小さい時から、お金持ちだったのさ」
「へーえ。いいな」
ミユは、そのときふと、ワタルを連れて帰ろうかと思いました。
「あんた、このおばあちゃんちに行ってみないかい?」
「えっ。おばあちゃんちに?」
ミユは、言ってはみたものの、これで良いものかと戸惑います。
向こうでは、新生吉備の主管巫女という不動の地位につき、押しも押されもしない功労ある隠居の身です。
帰れば、この子を幸せにするぐらいの蓄えはあります。
しかし、政情は安定したとはまだまだ言えません。
そこで決心が揺らぎます。
「ワタルちゃん。よくお聞き。
向こうに行っても、早めにここに帰るんだよ。
そして、どうしても、ここが嫌になったら、またおばあちゃんちに来たらいい。
そのときはずっと泊めたげるよ」
ワタルは釈然としない様子ですが、「うん」と頷きました。
その後も、いろいろ話をしながら、目的地に向けて歩きます。
その最中にも、ミユはいろいろ考えます。
この子なら、吉備を継ぐだけの知力を備えている。
もしかすると、大和から独立して、昔の吉備を復活させることができるかもしれない。
ウラやノボが理想とした国を。
いやいや、待って。そんな血なまぐさいことは、この子にさせられない。
この世界で生きるほうが、よほど幸せだろう。
様々に考えるうちに、目的の場所につきましたが、いつしかミユは考えを変えていました。
「ワタルちゃん。おばあちゃんは、ここまででいいよ。
ごめんね。これみなあげるから、おうちにお帰り」
ミユは、お釣りとして持っていたすべてをワタルの手に握らせました。
「おばあちゃんちまで行くつもりなのに・・。送らせてよ」
「いいや、私の家はもう目と鼻の先。だから、いいのさ。
ありがとうね。ほんとうに楽しかったよ」
ワタルは寂しそうにしながら、「うん」と頷いて、後ろを何度も振り返りながら、もうすぐ夕暮れになろうとする道を帰っていきました。
<ああ、これで良かったのかねえ>
何が最善であるかは、たとえ霊能に秀でたミユとはいえ、不透明なことでした。
悩んだり悔やんだり、あれこれと考えるうちに、夜が来ます。
日中は暑かったとはいえ、群青色の空は澄み渡って高く、山の上では寒い風も吹き渡るようになります。
西の地平は橙色の輝く帯。
月はまだ、下のほう。
<まだ、いくらか時間がかかるねえ。少しここで目をつむって休もうか>
うつらうつらとしたそのとき、一つ強い風が吹きました。それをまともに吸ったミユは、突然、喘息の発作を起こしてしまったのです。
しばらく咳き込んだ後、胸が締めつけられるような激痛に襲われました。
<ああ・・痛い>
見ると、目の前にある祠の奥壁が、光り始めているではありませんか。
<あっ。いま開いたよ>
よろよろと、ミユは立ち上がり、より強く光り出したその中に、転がり込むように入りました。
<これで帰れる>
ミユを包み込むように、ゆらゆら揺らめく光。
すごく幸せな気分です。
ふんわり暖か。すべての力みが取れていくようです。
しばしの後、ミユは光の中に誰かいるのを見ました。
輪郭がはっきりしてくると、
それは、かつて在りしころのノボの姿ではありませんか。
そして、彼の優しい声が聞こえます。
<ミユ。 お帰りなさい>
<ノボ。 こんなところにいたのですね>
<そうです。 さあ、こっちにおいでなさい>
<はい>
光がしだいに雲を散らすように薄らぎ、あたりを見ると、いつのまにか、そこは湖畔です。
英国のどこかの都市近郊の公園にある湖畔のような風情です。
ノボは、いつしか山高帽をかぶり、オリーブ色系のスーツを着た英国風紳士になっています。
そういう自分はと見ると、白のハイヒールに、薄紫色のワンピースを着た長い髪の若々しい女性でした。
少しも不思議な気はなく、そのようでした。
湖を見晴らす高台のベンチに坐った二人。
二人して、知っていて知らない湖を眺めているのです。
木陰のベンチで・・・少し離れて座っています。
ポツポツ雨が降り出しました。
ノボは、古風で大きなカバンを膝の上に取ると、中から小さな青いパラソルを取り出しました。
「傘が小さいので、こちらへ寄ってください。そして、少し歩きましょう」
「はい」
ミユは遠慮がちにノボに寄り添って、二人して湖の方へ歩きました。
ノボを見上げると、なに一つ言わずとも、その微笑みは、ミユのすべてを理解しているかのようです。
アジサイ色の空から、しとしとと小雨が降り始めます。
「雨のかからない場所へ移りますか?」
「いいえ もう少し、このまま この景色を見ていたいです」
「そうですね。そうしましょう」
二人はそのまま、雨が湖と一緒になる 音を聞いていました。
とても、静かで 穏やかな ひとときでした。
ノボが、ふとミユを見ます。そしてまた湖を振りかえり見つめます。
<雨は、風情があって、好きですよ。
輪郭に丸みとあいまいさを出してくれます。
そこに心は自由を見出すのかもしれません。
でも、濡れるのはちょっといやですね。
スーツをまた乾かさないと。
着たきりすずめなものでね>
ミユは優雅に微笑みます。
<腕を組んで歩きましょう。
パラソルをさして、小雨にけぶる湖畔を、もう少し。
雨は湖に、いくつも波紋を作っています。
かさなりあって、うちとけて。
いくえにもいくえにも>
<とても、情緒がありますわね>
二人は、腕を組んで、いっそう寄り添いました。
ミユはノボの肩に頭をもたせかけます。
<今まで、何度も何度も会いましたね。
その中のいちばん想い出深い光景です>
いままで二人にあった、長い長い道程の中で、最も淡く美しい光景が、ここにありました。
ミユも、深い憧憬の想いを持って、見つめておりました。
長い長い道程、とても長い時の経過が、ちりばめられているようでした。
やがて、雨もやみました。
二人は湖畔のテラスに入り、一つのテーブルにつき、
コーヒーを二つ注文しました。
白いテラスはたった二人だけのためにあるようでした。
<さあ、お嬢さん。
ぼくの無骨なカバンを開けてご覧になりますか。
この中には、たくさんの手品のタネが入っています。
美しいあなたに、今度はどんな手品をお目にかけましょう。
あなたがして欲しいと願うことをして差し上げるのが、私のモットーです。
遠慮はいりません。
なぜなら、
あなたをこよなく愛しているからです>
かばんの中には、時代色を奏でるいろんな種類の人形が置いてありました。
ミユには、かつて経験したことがあって、懐かしい気持ちがします。
こんなときけっこう無造作に選んでいたような、かすかな記憶もありました。
隅のほうに、純白のウエディングドレスと白のタキシードの男女の人形のペアーが見えます。
ミユはタキシードの人形を、ノボと見比べるように見てにっこり微笑むと、指差しました。
ノボも静かに微笑みながら頷きます。
ペアーの人形は、光りはじめました。
二人はどちらからともなく、言葉を。
<長い間、待たせましたね>
完
終わりの日、神は最も愛する者の姿をとってあなたの前に現れ、導くという
それは光であり、憧れであり、永遠の愛であるという