酒鬼薔薇事件と  サタンの悲哀



神の正義? そんなもの、どこ にあるのか


正直者や善人が馬鹿を見る。そんな話は人々の間では当たり前のことである。要は考えを簡単に他人に読まれてしまうお人好しは、弱肉強食のこの世において後 手(ババ)を引かされるのだ。

また、運勢とか運気というものは、日ごと短時間に変わり、ツイたりツカなかったりを繰り返している。そのメの出方は、とても確率論で論じられるものではな い。悪いときには、何をしてもうまくいかない期間が何日も続いたりする。そんなことは、誰もが痛いほど経験済みであり、占い師が巷でもてはやされる理由に もなっている。

つまり、人は自らの能力や運命に対して無力なのであり、それを自由平等であってほしいと願ったところで、はじめから実現することなど有りようがないのであ る。
巷ではマーフィーの法則が評判になっている。成功者はひとりでに成功者としての種を心の中に撒いており、うまくいかない者は自分の心に成功の種を撒かな かったからだという。現実はこうあっても、心で逆転の発想をすることを心がける。たいへん困難なことではあるが、こうすることで成功に転じている人も多い という。

そう。心の実現力という、人それぞれに与えられた超能力ともいうべき能力を活用する道が古くから唱えられていた。この法則は何も最近のものではない。イン ドや中国では、心の創造力に関して体系的な実践論を持っていた。
であるのに、現在では科学の論法としての確率論が真理とされ、こうした精神論の出る幕は封じられている。百人百様に何らかの奇妙さ、矛盾を味わっているに もかかわらず、自然科学がそれを認めようとしないのだ。

どうしてだろう。生きるにあたっての何か大切なノウハウが教えられてきていないどころか、わざと教えないでおこうとされてきた気がしないだろうか。ようや く自由主義の恩恵のおこぼれとして、このノウハウに触れるチャンスが与えられているかのようである。その他多くの人たちが一般常識の中で紆余曲折しながら もがいていても、それもまた自由とみなすわけだろうか。

識者ならこう考えるかもしれない。為政者が民をうまく律するために、あえて成功に導くような思想を封じ、従順にさせるための平準化された法則を教え込んで きたのだと。人は生まれて、その環境で育たねばならない。信条もその環境から得る。三つ子の心は、百までも。凡人ばかりを予め生産して、出る杭を未然に防 いでいるという陰謀があるのではないかと。

同類のことが、神の名のもとに行われてきた過去が世界にはある。
古来より人が神から生活の規範として教わってきたとされることは、世界の法律の元ともなっている「人の正義」であった。
人の物を盗るな。人を傷つけるな。人を殺すな。人と分かち合え。・・・
神が人に授けた正義は、人々に公平であることを求め、節度を求めるものであった。

最近は自由主義の下に精神世界の話題が多く出てくるようになり、神の定義に関しても的を得た考え方がたくさんあって、感心させられるばかりであるが、中に こんなことを言われる人がいた。

神のお考えになる正義と、人の考える正義は、“違う”のだと。
だが、マーフィーらの言う原理がほんとうの神の正義だとするなら、今のこのご時世では、限られた資源や地位立場を他の人から簒奪することになるはずである から、それでは人の正義に反することになる。
それは意味が違う。みながみな、マーフィーの成功の法則を身に着けたなら、新たな生産も生まれて、世界は限りなく発展していくだろう。そのとき成功はすべ ての人が共有する出来事になるというのかもしれない。それならすばらしい話である。

しかし、いずれにしろ神は人に対して嘘をついていたことになるだろう。
神は正しからざる正義も時として召しいることがあるという聖書のくだりがある。文明の黎明期の人心の未熟状態なら仮面の正義を用いてももいざ知らず、我々 はこの高文明期を迎える今にいたるまで、ずいぶん待たされてきた気がする。
しかも、少しも改善されているようには思えないほど世相は混沌化する一方である。

時限立法ならばそれはいつまで続くのか教えてほしいくらいだ。それは聖書に書かれていると、どこぞかの伝道師が来たが、混乱状態をどんでん返しするような 神の約束手形など信じられるものかと追い返してしまった。
この原因について、私は一言、「この世界の運行原理には正義がない」という言葉で締めくくろうと思う。正義もなければ、誠意もないと。

言い換えれば神にである。この世を差配する神に正義も誠意もあるように感じられないのだ。無神論者の人には神の定義から議論しても仕方ないので、「自然界 のルールは」と読み替えてもらえばよい。科学万能を叫ばれる方には、前述した話によって科学がいかに無力かを反省していただこう。

ここから、とつぜん話が飛躍するかもしれない。これ以降は、神の領域に切り込む仮説だからだ。この過程で、この世界の裏の構造がみなさんに理解してもらえ たら幸いである。


鬼のしていたこと

私は以前、学研ムー・ミステリー論文部門で優秀作品賞をいただいたことがある。1990年8月号で掲載された「古代日本を動かしたカバラ思想の謎」という 作品がそれで、以下の中東由来の発見図形について論ったわけであった。
1995年には単行本にして不足を補い、「古代日本にカバラが来ていた」のタイトルで出版した。現在は電子本として焼直したものと、Webページに「古代日本・謎の中東思想渡来考」 として掲出している。
下の3つの図は、そのときのものである。


そこから導かれる予測は、古代日本で、大規模な生命の木曼荼羅に従った畿内活性化の魔術儀式が執り行われていた可能性であった。最重要のカバラの秘儀「中 央の柱の回流」の儀式の形跡が、若狭神宮寺のお水送りと奈良東大寺のお水取りに反映されていると私は見たのである。

このいわれは、東大寺大仏の開眼法要に遅れた遠敷明神がお詫びに二月堂の本尊に供える香水を若狭から送ったとされる故事にちなむとされる。奈良時代から仏 教形式で僧侶によって儀式は進行しているが、密教がそれを行っているなら別だが、空海が登場していない時代にそれはおかしく、むしろ仏教伝来のはるか以前 にカバラを携えた人々の流入があり、祭祀霊場設営の布石にカバラの原理を当てはめながら、前身的な儀式をも行っていただろうというのが私の説であった。

開眼法要に遅刻したお詫びというのは、古来からあった遠敷明神の儀式が遅れて取り入れられたことを表すかのようだ。その習合された形が、聖水送受の儀式で あったと考えられる。

では当初、それを誰がやっていたのか?
私は「鬼」がそれを行っていたであろうと考えるのである。
鬼がどうしてと驚かれるだろうが理由は簡単だ。起点の若狭遠敷の「おにゅう」とは、生命の新生を表す言葉であり、職業がそのまま部民を表す名前になってい た当時からすると、彼らは遠敷明神を奉戴しながら、一族郎党がそう名乗っていたとしても不思議ではないのだ。

「おにゅ」という発音はいつしか「おに」となり、漢語の物の怪を表す「鬼」に当てはめられてしまったとみられる。
それは中央の命令により、回春の新鮮な生命力を真南にある都に対して送り込み、都と都人を活性化しようとの目論見の部族だったはずである。

それが仏教に改宗されるや、儀式を執り行う者がフルメンバーチェンジされ、生命エネルギーは東大寺の廬舎那仏に対して賦活されるものとなってしまった。賦 活された仏の慈悲が間接的に庶民へと回ることになると意趣が転化されたのだ。その行く末がどうなったかは、歴史学が回答を与えてくれるだろうから、ここで は論じないが、かつて神道寄りで国家レベルの儀式を行っていた部族がいて、それが中央の力関係の変化で不遇な立場に追いやられ、地方に身を隠し、その神通 力が恐れられたゆえに「鬼」一族となったと解するのである。

そして、鬼には、悪行を働く無慈悲者すべての罪状が押し着せられて今日に至っているわけである。成行きの不遇だけで鬼にされた者の恨みは計り知れるもので はない。
だが、それがまさしく現実のものとして、現代に蘇ったかのような怪事件があった。世界をも震撼させた、神戸の酒鬼薔薇事件である。

酒鬼薔薇事件の黒幕

私は前作品で、世界ばかりか日本をも古代から操った陰の勢力について取り上げた。それは人が構成する組織であろうと仮定していた。ところが、そんな生易し いものではないことを、1997年に起きた神戸市児童連続殺傷事件は誇示してきたのである。そう、まさに誇示であった。

この事件の発生を知ったとき、酒鬼薔薇聖斗のつづりから、私は真っ先に酒呑童子を連想していた。酒・鬼は文字通りである。薔薇も中東の伝統の流れを保つ者 にとっては、葡萄酒への憧憬というべきか。聖・斗は、聖戦を暗示している感があった。そして事件の猟奇性からして、なにやら退治された童子の顛末に似てい るように感じたのである。

何ヶ月かの後に犯人は捕まったが、犯罪のものすごさにしては少年事件であり、これには世界もどうして大人しく治安の良いはずの平和な日本にこんなことがあ るのかと驚いたものである。

酒呑童子は大江山で坂東武者の源頼光に首を討たれ、都の入り口に当たる老の坂に晒されたとされる。(あるいは都の羅城門ともされる)
だが、少年においても、宮仕えの都の入り口に相当するのは、学校の校門である。この事件のミニチュア化の巧みさを思うと、自然現象的犯罪とするにはあまり にも出来過ぎの感があった。

私は地元の噂をもとに、試しにかつて図形を発見したときのように、大江山と事件のあったタンク山を直線で結んでみることにした。するとどうだろう。タンク 山は大江山山頂のちょうど真南に位置した!!
そして、単純に距離を測るとほぼ86kmであった。それは以前に図形にした若狭遠敷の鵜の瀬から東大寺までの距離と同じではないか!!


まさかそんなことはあるまいとよく見れば、大江山と鵜の瀬が等緯度上ではないか。タンク山と奈良東大寺も、ほぼ等緯度である。これには驚愕し戦慄してしま い、その日は熱を出してしまう始末であった。

震える布団の中で、私にはその意味が、走馬灯を眺めるように理解できた。
鬼の一族は、かつて若狭にいて、遠敷から都に至る送水の儀式を行っていた部民の子孫であったのだが、いつ復職叶うかわからぬ中で、近傍の大江山深く篭って いたのである。だが、時は彼らにさらにむごい仕打ちを与えた。

討伐の手柄で当時一世を風靡したであろう源頼光。それを横道者と叫んで息絶えた酒呑童子。
「横道」それはそうであろう。大江山絵詞によれば、頼光の一行は武士でありながら修験者の格好をして彼らを油断させ、みめ麗しい童子が“角を外して”出迎 えてくれたもてなしの席で、毒酒を飲ませて身動きを封じて殺したというのである。

“角を外す”とは、彼らも修験者のいでたちに似た習俗のカバラ行者だったことを示している。そのような彼らに悪行が為せようかと思うのであるが、それまで にも着々と横道は都で準備されていたのだ。

私は、不遇な歴史を辿り誤解を受けたまま最後に惨殺された酒呑童子の冤罪への無念の思いが、殺害者への徹底的な評判の叩き落しという復讐劇となって現れた のではないかと解釈した。規模は少年事件へとミニチュア化したが、1000年の時間を超えて、怨恨事件の恨み返しとして相似像を現代に投射したのではない か。ならば、平将門にも勝るとも劣らない神通力であろう。

私は、知った者だけができる程度のこととして、真相はこうであったろうと思う酒呑童子の伝記を書いて自分のネット上の作品集に置き、霊を慰めていた。
ところが、ことはそれほど単純なものではなかったのである。

事件の真の黒幕はサタン?

酒鬼薔薇少年が指導を仰いでいたというバモイドオキ神の絵をご存知の方もおられよう。
中心に仏像の頭部が描かれ、そこから触手が左右に何本か分かれていて、その先に心臓や血もしくは汗らしい液滴が描かれ、その神と称するものの体の下には、 世界を示すのであろうか、昼と夜の空間が描かれている。おそらく、この触手神によって世界は支配されているとでも言いたげな感じである。



少年がどこかのミステリーマンガあたりをヒントにしたと言ってしまえば、ことは簡単だ。だが、少なくとも彼に怨霊の虜になっている可能性が認められるな ら、軽々しく扱えないことはお分かりだろう。

実はこの仏頭も、東大寺の廬舎那仏と断定できる。なぜなら、その背景にある線群は、生命の木の直線構図を歪曲したものであると解せ、昼夜の空間を含む景色 は、カバラの寓意図に似ているからである。それらは私が、前に投稿した際の挿絵をどこか合成したような感じになっているのである。この可能性の発見のとき も体が震えた。

つまり、少年は頭に思い浮かんでくる図像を描き取ったに違いないわけである。だが、それはどこから来たのだろうか。テレパシー実験などでは、強いイメージ 力を持つテレパス(想念の送り手)が、感受性の強い受け手にそのイメージの想念を送るとき、受け手の側の脳裏にはっきりしたイメージとして伝わることが知 られている。酒鬼薔薇少年は感受性が強い性格のようである。だからテレパシー的な感化を受けた可能性はある。ところが私は当時、とうにそうした憶念を停止 して、他の事にいそしんでいた。とすれば、時間を合わせねばならないテレパシーということでもないのか。

いや、私の書いた記事から誰かがイメージを送ることは考え得る。そう。しかもそれは人間である必要すらない。
この想念波動の渦巻く世界。誰かが想ったことが、人間よりも霊的存在のほうに察知され、感得されてもおかしくはないのだ。

私の情報を読み取った形而上的存在がいて、それが想念するに都合の良い潮時を選んで少年にイメージを吹き込んだのかもしれないというわけである。
私は少なくとも、作品制作の当時から酒呑童子に見込まれていたかもしれない。彼らに対して、職業から解き起こしたまともな解釈をしてやれた者は誰一人とし ていないと断言できるからだ。そう。カバラの図像の潜在が明らかにできなければ、彼らは封印されたままだったはずだからである。

では、バモイドオキとは、酒呑童子の怨霊のことなのだろうか。いや、さらにその背後に魔王もしくは邪神の存在があったはずだ。
少年はおそらくバイオモドキだと言いたかったのであろう。それは、生命モドキ、命のあるように振舞う者のことと解せる。ゾンビと言ってもいいだろう。聖書 にもこんな表現がある。「世の初めから神の命の書に名前の書かれていない者」と。それはサタンということになる。

そんなとき私は、ひとりの霊能者から、こんな話を聞かされた。
「私は夢で見たんです。場所は地球のどこかにある緑豊かな都会のようでした。ところが、私には薄い壁を隔てた別の世界が見えているんです。そこは暗くて、 人工的な明かりでぼんやり照らされている機械的な都市でした。ある部屋に人々がいて、計器類の前に座っているんですが、その顔はとても疲れていて、精気が 感じられないんです。確かに文明はかなり進んでいるようですが、こちらの世界に住む人と比べてよほど不幸な感じでした。直感的に分かったのですが、彼らが こちらの世界をコントロールしているのです。彼らには見失った何かがあって、私たちに干渉することによって、それを見つけようとしているのです」

また、この霊能者は別のときにこんな夢を見たことも話してくれた。それが前者と同じであるかどうかは分からないが。
「彼らには魂がないんです。だから淋しくて、魂のある人間に干渉していろんな問題ごとを引き起こしているんです。ロボットのような感じで、形はXXXXを しています。私は、たくさんの人とともにそこにいましたが、彼らがどこまでも監視するので、他の人たちにふと思い付きを言いました。

『彼らは淋しいから私たちを見張っているのです。淋しくないように、さあ、みんなで彼らの目と目を向き合わせてやりましょう』と。みんなが、彼らを掴まえ てそのように互いに向き合わせますと、彼らの目が急にトロンとなって、私たちを監視しなくなりました」

XXXXについては、読者に推測してもらうことにしよう。
前の夢と後の夢が同じものを指しているかどうかは分からないし、いくら霊能者だからといって、話自体をにわかに信じるわけにもいかないだろう。だが、私の 中では、実際に起きている現象と、繋がりがどんどんとれていく不思議を感じざるを得なかった。
彼らはおそらく人間ではなく、魂のない形而上的存在、いわゆる生命モドキということか。私がこう書いているときにも、監視好きな彼らは覗き込んでいるかも しれない。

世界危機の黒幕もそうか

いま世界情勢を眺めれば、依然一触即発の危機を抱えていると言っていいものがある。北朝鮮がよもやの核、いや脅しのミサイルをひとつ撃っただけで、日本の 株価と国債が暴落してしまう可能性がある。崖っぷちの日本経済をかろうじて支えているのは、安全神話だけだからだ。何も聖書の暗号の期日を待つことなく、 日本発の経済恐慌が世界を覆ってしまうかもしれない。

この魂を持たない奇妙な神が、自己主張を始めたと言ったら驚かれるだろうか。
ヨハネ黙示録にも、天上の戦いで叩き落されたサタンが、地上に降りて跳梁するというくだりがある。

巷を見れば、ほとんどの人に利己主義、利益第一主義、拝金主義が根付いた感がある。有限な地球資源が、お金という偶像によって食らい尽くされていく光景が 広がっている。この人類の成行きは、集団自殺に向かうレミングさながらであり、サタンの巧みな洗脳に引っかかっていると言うしかない。
それらサタンの大域的な自己主張の合間を縫って、小悪魔がしているとでも言うべきか、発狂的な神懸りをして、サタンの存在をアピールしているケースが増え てきているのではあるましか。

冷酷無残な凶悪犯罪が毎日のように改まって報道され、ついにまだ幼い少年さえも犯罪を起こすようになった。たいがい何かに憑かれたような彼らの残虐な犯罪 行為は、内的衝動や内的陶酔によって引き起こされている。理性によるセーブを簡単に超えさせてしまうもの。それが、サタンとその配下が総力を挙げて取り組 むテレパシー実験とも言えないだろうか。そして、それは次々と成功を収めているように見える。

地域の人たちをパニックに陥れ、心に深い傷跡を作るに実効を揚げているだけでなく、洞察力優れた歴史の生き証人たちにその存在と成果をアピールしているか のようである。
巷では、非良識人や人非人がどんどん増えている感がある。それが彼の世界支配の証であろうか。勝ち誇るかサタン。フレーフレー、ハーデース! フレーフ レー、ハーデース! そんな歓呼の声が耳に木霊すようだ。
だが、本当にそうだろうか。

黙示録に、いずれ退治されて火と硫黄の燃える池に投げ込まれると預言された彼らは、本当にそうなってしまうことを予感し恐怖し、救いを求めているような気 もするのである。
だが、同情はしたくない。なぜなら、人類のためにしたことは、あまりにも不埒かつ冒涜的であり、どれほどの魂が純粋を損わされ困惑させられたか知れないの だ。万死をもって償うに値すると思うからである。
だが、「淋しい存在」そう考えるとき、彼らにまつわる謎解きを試みたくなるのが、私のような酔漢であろうか。

世界支配の真の黒幕は誰?

もう一度、冒頭の問いかけに戻ろう。
この世界はもしかすると、我々が未だ想像したことのないような神によって支配されているのではないか。この神は、崇拝され賛美されることを求める神である ことは間違いない。それは為政者であれば必ず備えている性格である。天にあるごとくが、地にもある。逆に地を見れば、天の性質も分かるというわけだ。神の 愛とか正義とかの側面は、人が崇拝と賛美を自己利益にプラスになるためか、おべっかとともに合理化によって創られた希望的性質である。

真実は、仏教思想に言う無明縁起であり、ヒンヅー教にいうマーヤである。物質世界だけは他の界と違って、サタンが支配するとするカバラ思想家もいる。
サタンはルシファーという、もともと神に近い天使であったとされるが、何ゆえ堕ちたかについてははっきりしていない。彼が神に近かったゆえに奢り高ぶり、 クーデターを企てたとか、後からきた御子キリストに神の寵愛が寄せられるので嫉妬したとか言われているが、どうも釈然としない。私は、ルシファーが神の秘 密に関わる何か知ってはならぬものを知ってしまい、それがもとで反攻に転じたというなら分かる気がするのである。

神はその点もっと狡猾なように思える。サタン・ルシファーの地上破壊計画そのものをも計算に入れ、最終までのシナリオを決めているのである。
神は、サタンもそれに操られる人類も、十把一からげにした聖書を人類の前にもたらした。いまサタンは人類のほとんどに獣の印をつけさせることに成功してい る。印のつけられた者が、サタンと同じ運命を辿るとすれば、人間は最も無知で哀れな存在に思えてこないだろうか。

サタンは、いま自己主張し始めたと言った。時が短いことを知って焦っているような雰囲気が伺えるほどだ。つまり心底、これからの成行きを怖がっていると思 えるのだ。
考えてもみよう。自分がやっていることを、しばらく神が容認し、時が来たらやっつけられるのだとすれば、それはまるで八百長試合のようなものではないか。 神がサタンと予め協定を結んでいないとすれば、神はよほど実力があり、圧倒的に怖い存在であることになる。それをあえて反抗する馬鹿なら、それなりに覚悟 をしているはずであろう。

いっぽう彼が神の密命を帯びて混乱を起こしているというなら、猿芝居ということになる。だが、その場合でも、彼が「裏切られるのではないか」という大きな 不安を持っていないとも限らない。
私は、ふとヤマトタケルの事跡と生涯について考えてみた。

景行天皇の命により、日本を南に北に各地のまつろわぬ部族を平らげていった。しかし、結局は天皇に寵愛されることなく、ヤマト平定の歴史の歯車に組み込ま れていっただけであった。伝承だけが哀れを誘うものとして語り継がれ、後の人によって神社が作られ崇敬もされているわけである。しかし、それだけで彼が癒 されただろうか。

彼のしてきたことは、先民族を駆逐することであり、その所業は先住民からすれば、サタンのそれと映ったに違いない。まさに悪役をこなし、怨念の数々を天皇 の代わりに身に受けて死んでいくしかない人物像である。それでも天皇に省みられないのだとすれば。
同様のことが、サタンにも言えないだろうか。

下界でのあらゆる悪行はサタンのせいだと誰もが信じている。必ず、神が最後には退治してくれる。だから神を敬い、神の側について、サタンや愚かにも彼に付 き従った悪辣な人々の永遠に滅びるのを高みから眺めたがる。そうした様々な選民思想が世界を席巻しているのも現実だ。

サタンも、いかに神に順ずる天使だったとはいえ、やったことの罪深さによって、いずれ過酷な摂理に遭遇させられる。火と硫黄の燃える池がそうだと予定され ている。まさか、そんなことはあるまい。協定と違うではないかと言ったところで、どうなるだろう。
神はもっと狡猾なのだ。

そんなとき、同じ思いでいたのが、酒呑童子であったろう。かつて国の活性化のために尽力した自らの先祖がしだいに零落していく歴史を思い、さりとて都から 仕官のお呼びがかかるわけでもなかったときに、都の陰陽師の仕掛けた誹謗中傷が世間に広まり、天皇の命で討伐されるにいたるまでの経緯。

この無念が、サタンの不安と結びついたとしても不思議ではない。サタンは、命の書に初めから名が書かれておらずを予感するように、まさに魂がないかのごと く失意していて、断末魔を思わせるほど、自暴自棄になって暴れているのではないのか。

だがそこには、もし分かってやれる者がいるなら、真相を打ち明けたく思っている心が見え隠れしている。それがまず、今回のこの事件であり、知る者をして真 相を明らかにせしめんとしているように思うのだ。

断末魔。そう、かなりの悪事を働いた者は、死ぬ間際に、自分のしてきた悪行の数々と、握っていた秘密を、気心知った者に打ち明けて死ぬという。そうするこ とが、自分のしたことへの罪滅ぼしの足しになると思う心がそうさせるようだ。また、知る者に弔ってほしいという心が少しでもあるに違いない。

魂がない。魂を失くすとは、本来なら輪廻の道も閉ざされた意識原理の途絶を意味する。その刑を言い渡された死刑囚ゆえ、あらゆる真相を語る資格があるよう に思われる。
私は一塊の酔漢である。どうしてやることもできない。ただ、燭光揺れる暗い部屋で、酒を酌み交わしながら、サタンと酒 呑童子、二人の話を聞いてやるしかない。
こうパソコンに打ち込んでいるとき、思わず泣けてきた。ふと見れば、両隣から酒呑童子とサタンが覗き込んでいて、涙を流しているではないか。ああ、こいつ らの想いが伝染したかと思った。

しばし彼らのざまのない醜態を見て、一杯あおりながら、こう言ってやった。
「お前らも泣くのかよ。だったら魂があっても、おかしくねえよな。俺みたいなピエロはよお、魂なんぞ金輪際ほしくねえんだよ。そんな不幸の元など、きっぱ り捨ててやらあ」と。

天皇に 見捨てられにし 白鳥の のぼのの淵に 浮かぶ遺影か
天王に 見捨てられにし 丹頂の 漆黒帳を 一羽行く影

物語異聞・酒呑童子伝

以上は平成十五年(2003年)当時の記事である。
それ以後にも検証に繋がる発見が相次いだ。

追記
次のダメ押し的な証拠が見つかったのは、2013年のこ とである。
こんなこと、どうして気付かなかったのかわからないが、拙論は古代日本に渡来していたカバラ思想を取り上げたものであった。
その「カバラ」の文字の頭を切り取るようにして「サキ」(裂き、割き)の文字が施されていることがお分かりになろうか。やはり私は挑戦を受けていたよう だ。



また、記事文中の※印の箇所の関連として捉えてもらいたいのだが、キリスト教イエスの伝承にある、裏切り者 ユダの話は有名である。ユダは二千年の過去から、キリスト教関係者から蔑まれてきた。ところが、そのユダも福音書を書いていたという事実があるという。そ れによれば、イエスとユダの間に密約が交わされていたというのだ。私はこのビデオを2013年にYoutubeの中に発見した。
ユダが至聖所にすでに在ることを祈りたい。



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