物語






送りオオカミ

作/奥人





私の母がまだ小学生のころ、丹後半島の伊根というところに住んでいて、

祖父は土木作業の閑期に、塩の炊き出しのため浜辺に通っていたという。




塩の炊き出しというのは、大きな釜で火を焚いて、

海水を蒸発させ塩を取るという昔風の採塩方法のことである。

当時、その塩を売って、わずかな生活の糧を得ていたのだ。




浜辺といっても、普通考えるような平坦な浜辺でなく、

道らしい道のない断崖の急斜面を、

磯の岩場まで上り下りするという厳しいものだった。




母もそれを手伝わされたことがあり、

斜面を上り下りするのに命からがらの思いをしたという。




それを祖父はさほどの苦もなくこなし、作業は日によっては

深夜に及び、二里ほど離れた家まで、月明かりを頼りに

帰ることもしばしばだった。




もとより、人気のない土地、しかも深夜に一人でというのも

さみしい話である。しかし、昔はどこでもこのようであって、

しかも多くの場合、無難に帰りつけたものらしい。




だが、不気味な日は時にある。

七分ほどになった月が、うっそうとした木立の隙間を通して

射し込む峠を越える頃、「ざっ、ざっ」とわらじが

地面と擦れあう以外に風音もない中に、「がさっ」と草の音が、

それも遠ざかるわけでなく近づくわけでもなく、

時折するのである。




何かに付けられているな、としばし急ぎ足にして、効き耳で

感じられるほどに歩みを戻すと、またも近くで「がさっ」とする。




そこで祖父はその何回めかのときに、立ちどまって後ろを振り向いた。

暗さに慣れた目で見ても、今きた道には何もない。




「木立と草むらの中だ。犬か?タヌキか?

ここでは正体がわからない。相手は襲ってくる風はない。

しかし、こちらが怖がっていると見せたら、どうなるかわからない。

とにかく何者かを見極めることだ。

少し行ったところの、山のせり出しと川に挟まれた先でやにわに

振り返ってみよう」と、右手に釜をいっそう握り絞めながら考えた。




やがてその場所にいたって、

ここぞと思うところで恐る恐る、不意に振り返った。




すると、いた!!

道の端に、二つ並んで金色に輝く皿のようなボタンを付けた

黒々とした影が静止したのだ。

しばし、祖父と相手のどちらもが、その状態でいた。




相手は正体を見られたにしては、襲ってくる風もなく、

逃げ去ることもなかった。




これは犬にしては大きすぎる。

オオカミだ、と背筋を駆け上る寒気とともに感じたのだった。

月明かりがオオカミの両眼に反射して、金の皿を呈していたのだ。




だがそこは気丈な祖父のこと、何も動じていない風をして、

再び前を向いて歩き始めたのだった。

時折振り返ると、さすがに一度目に触れられたためか、

道の上を一定間隔保持して、ずっと付いてくるのであった。




やがて何事も起こらず家に着いて、後ろを振り返ると、

草むらの中に金色に光る目がこちらを見ていた。

祖父は扉を絞めて、ほっと息をついた。

そして、これはどうしたことか古老に聞いてみよう、と思った。




翌日、出かける前に、村で二番目という古老に問うてみた。




「ああ、それはな、送りオオカミじゃ」




「送りオオカミ?」




まだ若かったころの祖父のこと、しかも山仕事は

初めて間もないころだったから、初めて聞く言葉だった。




「オオカミはお産が大変でな、

自分たちの安産と子供が無事に生まれるように、

月夜の晩にお月さんに願を掛けるんじゃ。

その見返りに、何か一つなり二つなり、世の中に善いことをしようとしてか、

お産前の雌オオカミは、夜道を行く人があると、

その道中を守ろうと、家に無事たどり着くまで付いてくるんじゃ」




祖父は、自然の不思議の一端を垣間見た気がして、

「ほお。そんなことがあるんかいや」

と感心していたとか。




犬と違いオオカミは野生の生き物で、

決して人になつくことはないとされる。

そして、空腹でありすぎたり、危害を加えられたり、

よほどのことがなければ、人の前に出ることも、人を襲ったりも

しないという。それがお産のときばかりは、気弱な

人間のような思いに駆られるというのである。




祖父はそれからというもの、夜道でオオカミに付けられている

と感じたときは、あの古老に教わったように、家の扉を絞める前に、

わらじの片方を玄関先に放り投げてやったという。




こうすれば、オオカミはあたりでいつまでも躊躇することなく、

うまく送り届けることができたと確信して

満足して帰っていくのだそうな。




--------------------------------------------------------------------------------


comment



「送りオオカミ」という言葉がある。

道中不案内な夜道を、親切を装う邪悪な奴が、

「送ってあげようか」と声をかけ、それにうかうか乗せられると、

道中でとんでもない目に逢わされるというたとえに使われる。

だが、それは人間の側が、

得体の知れぬものへの当てこすりでしたてた濡れ衣でしかない。

当のオオカミの本心は、そのようなものではないというのが、

この話である。



実際に深夜、特に月夜の晩に、

オオカミは夜道を家路に急ぐ人の後を、

二十間(約40メートル)ほどの間隔を空けて

付いてくるのだそうだ。

これは母から聞いた祖父・孫次郎の実体験談である。


Story & Comment by 奥人










−Copyright(c)2001- Okuhito all rights reserved−