物語






 

ホラー・・・・・世間の空隙     by 奥人
 
 
この物語は、3部構成のホラー物語で、オムニバス形式になっています。
説明者のナレーション部分と本文が交互に立ち現れますが、お読みいただく際に、説明部分のナレーターが、たけし、またはタモリと想定していただけるようなら、実感が伴うかと思います。
 




第1話・・・・・カウント

第2話・・・・・有り難いお医者さん

第3話・・・・・転居者


 
 

説明

病院。そこでは多くの人が病気の治療に訪れ、そして幾ばくかの期間滞在し、その多くが治癒されて去っていきます。ところが、どれほどかの人は、運悪くこの場所で命を落とすことになります。
考えてみれば、そこは広漠とした戦場と言えなくもありません。敵は自分に巣くった病気、援軍は医療関係者や設備というわけです。

さて、古戦場には、未だに彷徨いながら戦争ごっこをしている霊がいるとか。ならば、誰祭ることもない病院において、奇妙な戦争ごっこを続けている霊がいないと誰が言えるでしょうか。
次は、ある病院の噂に基づく実話モドキのお話しです。

 
 

−カウント−

 
そこはさほど大きな病院ではない。

夜の9時に2Fと3Fの病棟は消灯となり、

10時頃には3Fの看護婦待機場で、

今晩の当直の看護婦さんが二人、夜食を食べながら、

軽い話を弾ませていた。
 

C子:「下のフロアは、本当に真っ暗なんだから、行く気がしないわ。またお願いね」
 
 
A子:「だからと言って、容体が急変した患者さんが出たら、
 二人で確認して、当直医に至急報せなければならないのよ」
 
 C子:「そりゃ、その時は行くわよ。だけど定時の巡回だけは、ちょっとね。
前に辞めていったK子さんが、変な申し送りをしていくものだから、

よけいに気味悪くなってね」

 
 A子:「そう?だけど、午前0時から3時までは幽霊タイムだなんて、
何の根拠もないじゃない。ナンセンスよ」
 
 C子:「だけど、申し送りって、重要なんでしょ。それを冗談半分に言う?」
 
 
A子:「分かったわ。私がやるわよ。みんなそんなこと言って、
私にやらせようとするんだ。B子やD子だってそうなんだから」
 
 C子:「ごめん。でもA子は、恐いもの知らずだね。見直しちゃうよ」
 
 

A子:「そんなことないよ。恐い気分を紛らせるコツってものがあるのよ。

私はね、ステップのカウントをとるんだ」
 
 C子:「カウントねえ」
 
 
A子:「階段を下りるのに、何カウント。
そこからフロアの向こうの端まで、何カウントって具合よ。

そうすると、周りのことに気が向かないから、静かに巡回も完了するってわけ」

 
 
C子:「なるほどね。そういうことか。うーん。
じゃあ、いつまでもA子にばかり押しつけてても悪いから、

午前0時の見回りは一緒にやろう。コツを教えてよ」

 
 A子:「いいとも。もちろんよ」
 
 
こうして、その夜はナースコールも何事もなく、深夜0時を迎えた。

二人で巡回に出ると、やはり少し騒々しくなる。3Fの見回りは、

おしゃべりこそしなかったが、体を不意に突っ突き合ったりして、

懐中電灯の明かりがあちこちへと乱れ飛び、

二人は笑いの吐息をつい洩らしてしまうのだった。
 

 

A子:「しーっ」

C子:「しーっ」
 
 

そしてやがて、2Fに至る階段へとくる。

ひそひそ声で、看護婦A子は言った。

 

A子:「ここはね、下まで13カウントよ。いち、にい、さん・・・」
 

そう言いながら、一段一段を照らしながら二人して下りた。

 

A子:「11,12,そして、はい13。ここから、向こうの端まで50歩なんだけど、

あなたはあなたの歩幅があるから、適当に決めたらいいわ」
 
 
C子:「なるほどね」
 

A子:「いち、にい、さん・・・」
 
 

こうして帰りの歩数も50で帰ってくるという正確さに、

A子の熟練度がC子にも見て取れた。

 
 
C子:「私だったら、60くらいかかりそうね。足短いから」
 

A子:「くふっ。さあここから上までは12カウント。はい、いち、にい、さん・・・」
 
 

こうして、決められた数で、上までたどり着いた。
 
 
A子:「ねっ。簡単でしょ」
 

C子:「ほんとだ。恐いと思ってたけど、どうってことないよ」
 

A子:「じゃ、3時の見回りはやれるわね」
 

C子:「ま、まだ駄目。ひとりじゃ」
 
 

こういうわけで、その夜は、二人で巡回した。

その次の6時ともなると、外も明るくなり、

患者さんもちらほらと用を足しに出てくる。

そして、看護婦さんたちも、体の不自由な患者さんたちの世話をしに行く。

にわかのコールもかかるようになる。

そうなれば、怖いもなにも、カウントなど取るどころではなくなる。

人の動きも活発になる7時半頃には、昼勤の看護婦さんへと申し送りをして、

夜勤の看護婦さんたちは帰り支度をする。
 

 
C子:「お疲れさん」
 

A子:「どう、今度の当務から、やれそう?」
 

C子:「そうねー。やってみます」
 

A子:「うわーっ。うれしー」
 
 

こうして3Fのロッカールームで私服に着替えた看護婦さんは、

一女性となって、思い思いに自宅や寮へと帰っていく。

A子がカタカタッと、ハイヒールの音を響かせながら階段を下りていった後、

C子は、その階段にたたずんで、「よしっ」と、数を口に出しながら下りた。
 

 
C子:「いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、しち」
 
 
その時下から、院長先生が上がってくるのに出くわした。
 
 
院長先生:「お疲れさん」
 

C子:「あ、先生、お早ようございます」
 
 

立ち止まって、先生とすれ違ったあと、さてまた開始。
 
 
C子:「はち、くう、じゅう、じゅいち、じゅに。あれ?」
 
 
C子は、2Fから、もときた階段をふりかえった。
 
 
C子:「あれえ、一つ飛ばしちゃったかな。・・まあいいか」
 
 
もたもたしていると、急患が入ってきたりして、用を言い付けられかねない。
さあ、早く帰った帰った。

でも、上がるに12、下りるに12でいいんじゃないの? 

いやいや、こんな小学校程度の問題が解けないでどうすんの。

こうして、C子は半分眠気まなこで寮に着いた。
 

そんなことをほとんど忘れて入った翌夜の当務、

やはりC子はA子とペアーとなっていた。

 
 
A子:「今夜は、2Fの巡回、よろしくね」
 

C子:「あ、そうだったね。まかせといて」
 
 

午後8時にはそう言ったものの、消灯の9時にもなると、心細くなってくる。

待機場で、買ってきた夜食のカップラーメンを食べながら、

C子はきまりわるそうにA子にこう言った。

 
 
C子:「あのさあ。階段だけど、
上がるのに12カウントだったら、下るのにも12ってことない?」
 
A子:「下りは13になるに決まってるでしょ。
ちょっと頭を使わないといけないけどね。

何を言いだすかと思ったら。あっ、さてはまた恐くなったな」

 
C子:「へへっ」
 
 
C子は舌を出して笑ってみせた。

その夜も、何事もなく、退屈そうに目的の時間に近付いていく。

C子は、メモ用紙に、つい落書をしている。

階段のギザギザを描いて、その上をボールペンの反対側でなぞっている。

何度も何度もやり直し、それがうるさいほどに力が入り速さを増していった。
 

 
A子:「どうしたの、C子」
 
 
C子:「お、おかしいよ」
 
 
A子:「何をしてるの、あなた」
 
 
C子:「下りも、ぜったい12だよ。12にしか、ならないよ。あ、ああ」
 
 
A子:「ば、馬鹿言わないで」
 
 
C子:「でも、見てて、これを」
 
 
C子は、A子の見守る中、メモ用紙に、今度はインクのある側で、

階段の絵の一つ一つの段の上に、あの階段を下りるときの要領で

数をカウントしながら、慎重に数字を入れていった。
 

 
C子:「じゅういち、じゅうに。ほ、ほら」
 
 
A子:「うそよー」
 
 
C子:「で、でもおっ」
 
 
A子:「もう分かったわ。今夜も私がやる。
まったく意気地なしなんだから。見損なったわよ」
 
 C子:「や、やめといたほうが・・」
 
 
A子は取りつく島のないほど怒っていた。

持っていた日誌を無造作にその辺に放り投げて、懐中電灯を持つや、

0時には5分ほど早かったが、2Fへと下りていった。
 

その2分ほど後である。

「ギャーッ」という悲鳴とも、呻きともつかない声が聞こえたのは。

C子は廊下や階下が騒がしくなることを期待した。

だが、患者が誰一人として起きてくる様子はなかった。

悲鳴は、病室に届くほど大きくはなかったようだ。
 

仕方なくC子は、早鐘のような動悸を覚えながら、懐中電灯を持ち、

階段の手摺りによりかかるようにして、震えながら下りていった。

不思議にも、カウントが恐怖の原因であるにもかかわらず、気を静めるために、

階段の足下の段を一つ一つ照らしながら数えているのである。
 

 
C子:「しち、はち。はああ、はあ」
 
 
電灯の照らす範囲は、ごく小さい。
 
 
C子:「きゅう、じゅう。ふふへ、ふへ。じゅういち、じゅうに」
 
 
その先を照らしてみると、もうひとつ下にフロアーが広がっているではないか。

あれ、やはり13でいいの?

と、C子は今立っている段を、恐る恐る隅まで照らしてみると、

何と右隅の方にA子の白目を剥いた顔が、

階段の中に埋め込まれるようにしてあった。

 
 
C子:「キヤアーーッ」
 
 
C子が、へたへたと腰を抜かして座り込んだところ、

よく見ると、そこはA子の白衣の腰の辺りであった。
 

 
C子:「グギャーーッ」
 
 
 
〜〜  〜〜  〜〜  〜〜  〜〜  
 
朝6時、病院には、いつもと変わらぬ風景があった。

患者さんは、用を足しに起きて出入りし、

あの看護婦さん達も、黙々と自分の仕事をこなしていた。

何か騒ぎがあったはずでは? 

いや、まるで何事もなかったように、

あわただしい病院の1日が始まっていたのである。

外の社会も、空に騒音を奏でながら、また然りであった。
 

おや? あの看護婦さん達の眼がなぜか白くうつろに見えるが?

いやいや、それは気にする事はなかろう。

患者さん達も、先生も、道行く人も、みんな眼が白いのだから。
 

 

 

説明

C子が階段で腰砕けに陥った理由、それは簡単です。おそらく謎の正体を見て、現実との極端な乖離に、精神活動が頓挫してしまったからに違いありません。
では、A子はなぜ卒倒したのでしょう。これはおそらく、幽霊に遭遇したからではなく、長年培った固定観念が一気に崩れ去るという恐怖に直面したからではなかったでしょうか。いつも通り、0時に階段に向かっていれば、こういうことはなかったと思われます。

経験的な思い込みは、えてして公理を見失わせることがあります。また、公理を無理に立てるとき、せっかくの経験智によって築かれた平和が瓦解することもあります。このへん調整が難しいところなのかも知れません。


 

さて、世の中の風習には、昔とは異なるものがあるようです。中には、浅はかなご都合主義によって変えられたものもありますが、一見そのように見えて、実は深い思慮に基づくものもあったりするようです。次は、そのようなことを如実に示す実話モドキのお話しです。



 

有り難いお医者さん

 

小さな都会に、一人のお婆さんが住んでいた。

長年住み慣れた町で、嫁入りしてきてこのかた、その土地に馴染み、

界隈ではうるさ型のお婆さんで通っていた。

丈夫なお婆さんだったが、それには秘訣があった。

産後の肥立が良くなかった頃から付き合うようになった町医者がいたのである。

それがこの地域では名医と言われる人で、

どちらかといえば食事に気をつけることを指導し、余分な見立てはせず、

薬も最小限飲ませるようにするという、儲けず病気を治すことで評判だった。

その日、お婆さんは、頭にできた瘤が以前よりも大きくなったので、

なんとかならないでしょうか、と尋ねにいった。
 

 

医者:「これは悪い瘤じゃないからね。取ってもいいし、取らなくても大丈夫。

もし取るんだったら、大きな病院でやってもらいなさい。

私が紹介してあげてもいいよ。

それより、血圧の方がどうなってるか見ておこうかね」
 

 

お婆さん:「はい。先生の食事指導のおかげで、もう耳鳴りなんかしなくなりました。

ふらふらすることもないし、本当に快適です」
 
 
 

血圧計で計ると、医者はこう言った。

 
 

医者:「上が152、下が88。あー、これなら年相応だね。

でも、朝のスキムミルクとワカメのみそ汁は続けるんだよ」
 
 
お婆さん:「はい。もう毎日欠かせません」
 

そして、その日も薬はなし。

話だけで治療らしいこともなしで、お婆さんは帰った。

まあ、こんな風な付き合いで、それから数年が過ぎた。

そんなある日、町医者のもとに中年の男が駆け込んできた。

それは、お婆さんの長男だった。
 

 
長男:「先生。うちのおふくろが倒れたんです。すぐに見てくれんですか」
 
 
医者:「ええと、あなたは?」
 
 
長男:「xxxxの息子です。いつもおふくろが、何かあったときは
こちらに真っ先に声を掛けるように言っていたもんですから」
 
 医者:「ああ、そうですか。すぐ行きます」
 

こうして、長男に案内されるまま、家に駆け付けると、

布団の中ですでに青く冷たくなった無表情なお婆さんの姿があった。

医者が脈を取って、首を少し傾げて、

今度は布団をめくって聴診器で、老婆の心臓の鼓動を聞いた。

そして、長男の方を向いて、こう言った。
 

 
医者:「大丈夫です。しばらく静かですが、数日の後に良くなられるでしょう」
 
 
長男:「そうですか。それなら良いんですが。で、どういう病気なんでしょうか」
 
 
医者:「一時的な心停止、いわば貧血です」
 
 
長男:「はあ、そうですか」
 

横で長男の嫁が聞いていて、心停止という言葉に、疑問を持ったようだった。

医者は、家族を納得させて帰ったつもりだったが、

ところがその後で、その家の中は、喧々轟々のやりとりとなっていた。
 

 
長男の嫁:「お父さん、それは絶対おかしいよ。
心停止といったら、心臓が止まってることでしょうがね。

それで何ともないなんて、あの医者は信用ならないよ」

 
 長男:「何を言うんだ。医者の見立てが間違ってるわけないじゃないか。
それにあの先生は、ここらでは名医と評判の人だ」
 
 

そんなこんなで、お互いに治まりがつかない。

やがて嫁は、夕飯時になって、お母さんが生きているならと、

粥を作り、お茶を汲みして、長男が止めるのも聞かず、

ぐったりとした老婆の上半身を起き上がらせて、

無理にでも口に粥を運ぼうとした。

だが、老婆の口が受け付けることはなかった。

 
 
長男の嫁:「ほら、見なさい。生きてるなら、お茶くらい飲めるでしょうに」
 

しかし、長男はもう少し待てと言聞かせた。

翌日、長男は仕事に出てしまった。

嫁は、じっと横たわる老婆を見据えて、

困ったもんだといった表情で立っていたが、

やがて意を決したように、119番に電話した。

救急車がやってきて、隊員が老婆を担架に乗せて車に運び込むも、

いちおう脈などを見る。

そして、心臓が動いていないのを知って、あわてて胸の圧迫を試みた。
 

 
救急隊員:「いかん。心停止している。どこか最寄りの病院へ搬送・・」
 

運び込まれた病院で、すでに老衰で亡くなっている、

との所見を嫁は言い渡された。

嫁は、夫に対して、見てご覧なさいの気持ちであったろう。

やがて、仕事先の長男のもとに、すでに病院から死亡診断が出たことや、

親戚と相談して葬儀の段取りまで済ませたという連絡が入った。

 
 
長男:「馬鹿やろう。何てことをするんだ」
 

そうは電話口の嫁に言ってみたものの、

すでに段取りが組まれていることに、為すすべもない長男だった。

長男は、むしゃくしゃして、抗議をかねて、あの医者のところに出向いた。
 

 
長男:「うちの嫁さんが病院で死亡が確認されたといって、もう明日にでも葬式だ。
何であの時に正直にそう言ってくれなかったの。

おかげでこの俺はいい面の皮だよ」
 

 医者:「えっ。何ですって」
 
 
長男:「何ですってもひょっとこもないよ。薮医者め」
 

まだ弁解しようと言うのか、話にならんと、

かんかんになって家に帰ったのだった。

さて、問題は葬儀の日だった。

葬式は午後一番からというときに、突然家の前に

医療用の白服のままで、あの医者が現われて、何事かわめきはじめたのだ。
 

 
医者:「葬儀はしてもいいですが、まだ焼かないでください。
もし土葬なら、まだ土の中に埋めないでください」
 
早くから門前に立っていた親戚の者が、

「あなた、何なんですか?」と聞いているが、

やはり家の中に聞こえるほどの大声で、医者は同じことをがなり立てている。

長男と嫁が出てきて、あまりの非常識さに、かんかんである。

そして、前の道で、医者一人に対し、長男、嫁、親戚の者が

寄ってたかって言い合いする有様となった。
 

 
医者:「とにかく、お婆さんはまだ亡くなっていないんです。
今焼いてしまったりしたら、取り返しのつかないことになる」
 
 長男:「馬鹿言え。大病院の先生が、死亡のお墨付きをくれてるのによお」
 
 
医者:「だから、それは間違いです」
 
 
長男の嫁:「あなたねえ、どんな非常識なの? もうこの界隈、うろつかないでよ」
 

大勢の人たちがこの光景を見ていく。

中には、あの先生だと、挨拶をしようとする人もいたが、

状況がおかしいだけに、通り過ぎていくばかりだった。
 

 
長男:「かっこ悪いったら、ありゃしないよ」
 
 
まあ、こんな風であったが、昼前にはこの医者は、立ち去っていた。

数少ないとはいえ、親戚を主体とした参列者が集まってくる。

食事が別のところでふるまわれ、午後の葬儀が、

お坊さんの到着によってしめやかに執り行われた。
 

読経も終わり、お坊さんが退席し、出棺というときだった。

再び、あの医者が乱入してきたのだ。

家の中も周りも騒然となった。棺の持ち手もしばし茫然。

取り押さえる者とて、礼服のままでは至難の業だった。
 

そんなことが30分も続くと、とうとう家人も混乱が収拾できずに折れて、

その日の焼き場行きを断念せざるを得なくなった。
 

 
長男:「この野郎。後で損害賠償を請求するからな」
 
 
次男:「いったい、いつまで置くことになるんだ。兄さん」
 
 
長男:「薮医者。いったいいつまで待たせるつもりだ」
 
 
医者:「あと5日。最低5日」
 
 
長男:「そういうことだとさ。やれやれ、遺体が腐敗しなきゃいいが」
 

嫁は、真剣に困ったといった顔をしている。

親戚やその他が、何ともおかしなことになったといった感じで帰っていった。

 
 
長男:「へへ、もう誰にもまっとうに顔向けできないよ」
 

長男は、その場で泣きだしてしまった。

さて、その5日目がきた。棺の窓から覗くと、まだとろけてこそいないが、

老婆の青黒い顔があった。何の異変もあるはずがない。

窓を閉じ、臨時予約の霊柩車の到着を、長男たち5人ばかりは待っていた。
 

ところが、先んじて着いたのは、あの医者だった。

 
 
医者:「どうですか。お婆さんは動きませんでしたか?」
 
 
長男:「あ・・、あのなあ」
 
 
長男の嫁:「そんなことが起きるはずないでしょ」
 
 
次男:「兄さん。任せといてくれ。こんな奴、追い出してくれる」
 

その時、外に霊柩車が着いた。

 
 
長男:「よし、4人で運ぶぞ。おまえは、この医者に邪魔だてさせないようにしてくれ」
 
 
次男:「いいとも」
 

ところが、医者は、次男の静止を振り切って、必死に棺にすがり着いてきた。

その重さによって、どうっと棺はその場に叩きつけられた。

再び騒乱の状態となったので、とうとう嫁は110番した。

5分ほどの後、警官がきて、医者を取り押さえ、

両脇を抱えるようにして出ていった。
 

 
警察官:「えらい迷惑なことでしたなあ。後で署まで来てください。
あの男をどうするか、決めていただかねばなりませんので」
 
 長男:「はい。もうとても堪忍できませんわ」
 

すったもんだの末、ようやく棺を車に乗せることができた。

長男はどういう因果でこうなったのやら、とことん嫌な気分で乗り込んだ。

嫁と弟たちは、自家用車で焼き場に続いた。
 

さて、焼き場は、最新式の高熱バーナー炉であった。

ここに入ったら、灰になるまで出てくることはない。

長男は、霊柩車の開けられた後部ドアから、棺に問題のないのを確かめた。
 

<ずいぶん手こずったけど、変に化けて出ないでくれよ。おふくろ>
 

と、心の中で話したその時だ。

棺の中から、がた、がたと音がし始めた。
 

 
長男:「うっ、わっ」
 

霊柩車の運転手も、中を覗き込む。明らかにおかしいと見て取った。

 
 
霊柩車の運転手:「ご主人。こ、これはまだ生きてはりまっせ」
 
 
長男:「そんな、馬鹿な」
 
 
霊柩車の運転手:「そやけどですね・・」
 

自家用車を降りて、嫁たちがやってきた。

 
 
長男の嫁:「さあ、運ぼか。あんた」
 
 
長男:「それどころじゃない。い、生きとるみたいや」
 

棺からは、小さくなったが断続的にがたがた音がし続けている。

みんなその音を聞いて、お互い顔を見合わせた。
 

 
長男の嫁:「いやや、お父ちゃん」
 
 
長男:「そや」
 
 
次男:「燃やそ、このまま」
 
 
長男:「よし。そないしょ。運ちゃん。お礼はよおけするから、内緒にしとって」
 
 
霊柩車の運転手:「は、はあ。しかし」
 

運転手もおろおろしていた。

 
 
長男:「とにかく、中に運び込め。おまえは後ろ持て。おまえはそっち側や」
 

そそくさと運び込もうとしたその時、

棺の右前を持っていた長男があわててしまい、

焼き場の入り口の段差につまづいた。
 

 
長男:「うわっ」
 

その拍子に、棺は再び床に落ちた。

「ガターン」
 

次の瞬間、バリバリッと音がしたかと思うと、棺の蓋が弾け飛んだ。

と、見るや、棺の中から出現したものがあった。

それは、大きな蝙蝠のような羽を生やした、

嘴をとがらかした異様な生き物だった。

それは白装束がまとわり付くのを足で踏んづけて取り外すと、

「カアー」と一声唸って、みんなが腰を抜かして泡吹いて見上げる中を、

バタバタとはばたいて上空に去っていった。
 

すっかりぐったりして、5人は家路に着いた。

そして、家でみんなゴロッと横になると、

食事もせず、そのまま寝入ってしまった。

やがて電話があった。嫁がしかたなしに出ると、それは警察署からだった。
 

 
警察官:「医者を告発されるなら、来ていただけませんかね」
 
 
長男の嫁:「あんた。医者のこと、どうする?」
 
 
長男:「いらんわい」
 
 
長男の嫁:「告発は、しません」
 
 
警察官:「ご主人も同意ですね」
 
 
長男の嫁:「はい」
 

その後、この家からは、夜な夜な、

意味のない不気味な笑い声が漏れ聞こえたという。


 さて、あの医者は、その後いつのまにか医院を閉めた。

そして、二カ月ほどの後、ある山中で彼の古い車が発見されたが、

彼にまつわる遺物は見つからなかった。

自殺して果てたものか、それとも違う生き物として生き延びる道を選んだのか、

それは知るすべのないことである。

分かっていることは、ある小さな都会の片隅で、普通では信じられないことが

起きたという、そのことだけである。

そして、もっと不思議なのは、そうしたことが起きたにもかかわらず、

巷には何の噂も立たなかったということであろうか。
 

 

 

説明

死、それは何なのでしょう。死体、それはもしかしたら、一種のさなぎ状態なのかも知れません。

その昔、仏教的な葬儀は、少なくとも七日以上、十四日程度の遺体の保全を行ない、それ以降、鳥葬や風葬に処することになっていたようです。鳥や獣が遺体の肉を持ち去る場合がほとんどだったとしても、中には遺体が鳥に変化して飛び去る場合がなかったと、誰が言い切れるでしょうか。

いつの頃からか土葬が始まり、やがて遺体自体を消滅させる火葬へと変遷、 そこには死者が魑魅魍魎に化けることを阻止する思いが込められていたかも知れません。
しかし、魑魅魍魎の仲間の側からすれば、それでは困ると、今日に至るまで生存闘争を試みているのかも知れないのです。

さて、消息筋によれば、さなぎの期間は、しっかりと熟成させるために、十分な時間を取ることが望ましいとのこと。
あのお婆さんの場合は、あまりに周りが慌ただしく性急すぎたために、鳥とも蝙蝠ともつかぬものになってしまいましたが、実際はどうなるものだったのか。

さてそんな折、親切な情報筋から、エジプトでツタンカーメンゆかりの女性らしい遺体が発見されたと連絡をいただきました。
しかし、これはまた非常に長い熟成期間です。おそらく、古代の高貴な人々は、再び生き返るというこの一点に賭けていたようです。しかし、何千年というのは、いくら何でも長い。
そうなのです。変態(幼虫がサナギ化し、羽化し成虫となるようなこと)が可能かどうかは、その人の資質に依るのです。残念でした。


 さて、あの親切なお医者さんは、多くの患者さんの中から、同類をようやく見つけたようです。しかし、そのことも、お婆さんの変態も、さほど怖いことではありません。
最も怖いのは、あの親孝行であったはずの長男の心が、どうして最期に変態するに至ったかということの方ではなかったでしょうか。


 

さて、次の話は、もしかすると変態の資質を有するのではないかという人物の話です。変態。それはもしかしたらあなたのすぐ側にいるかも知れません。この次に目撃するのは、あなたかも。




 
 

転居者

 

それは突然、ブーンという唸りと共にやってきた。

それと共に、全身が硬直して動かない。

必死の形相で、目を開け、辺りを見ようとするが、

首も動かせないのだから、天井を見ているしかない。

かといって、この唸りに注意を向ければ、もっと激しくなる。

茂男は、そんなことに慣れて久しい。

三日に一度は起きるとすれば、もうちょっとした予感と共に

やってくる現象でしかなかった。それは俗に言われる、金縛り。

(大脳生理学で、入眠幻覚と言われる現象である)
 

よく、霊に訪問されたり、取り憑かれたりしたら起きると言われている。

確かに、この四畳半一間の部屋が並ぶ文化荘は、相当年季が入っており、

中には何かの経緯で亡くなったり自殺したりした人が居たかも知れない。

しかし茂男は、そのような霊を見たことはなかったし、

悪霊にのしかかられたという思いもなかった。
 

ただ、硬直して体が動かない。

呼吸しているかどうかも分からないから、

窒息死するかも知れないと思って、焦る。

焦れば、頭の中の爆音がすさまじくなって、なおも硬直する。

だが、一度たりとも死んだことはない。

こうしたことから、茂男は、恐れることなく処し方をマスターしていった。
 
 

<怖くなれば、目をつむって、夢の世界に入ってしまえばいいんだ。

だが、俺はそんな面白くないことはしない>
 

<動かせない体でも、まず一番簡単に動くのは、手だ。

力を加えれば、ほら動くじゃないか。

初めの頃は、その動いているはずの手が、見えずに驚いた。

だが、視野の周辺部で、淡い影のような手の輪郭が見えてからは

悟ったんだ、俺は。ああ、これが霊体(エンティティー)なんだと>

 

茂男は、次に足を動かすことに成功。足を目で見ることはできなかったが、

一度抜け出してしまえば、あとは軽やかなものだ。

次に体だ。これにはかなり力が要った。

だが、目をつむって、抜け出そうという強い意志の力で試みれば、

まるでゴム糊を剥がすような感触と、バリバリという音感と共にはがれ出て、

そのまま夢の世界に飛び込んでいった。
 

慣れてきた何度目かのとき、茂男は、

いつものように目を開けて天井を見ながら、

手の感触を確かめようと畳を触り、ざらついた確かな触感を得た。
 
 

<これが霊体の感触か。少しも肉感と変わらないじゃないか>
 
 

次に壁を触ってみた。ざらっとした漆喰の壁の感触があった。

さらに試していると、腕の届くはずのない天井にまで、

手が伸びることを知った。
 
 

<おお、やはりこれは霊体だからこそ>
 
 

茂男は、研究熱心にも、さらに壁の向こうに手が行くかどうか確かめた。

圧力感はあったが、難なくすっと通り抜けた。

そして、壁の向こうにあるだろう畳の感触を得て戻ってきたのである。
 
 

<やったぜ。やっぱり、これは本物だ>
 
 

自然現象とはいえ、このように不健全な、研究とも趣味ともつかぬことを

茂男が重ねていた頃、開き部屋だった隣の部屋に、

若い女性、加世子が引っ越してきた。
 

加世子は、隣人の茂男に挨拶もせずに生活をし始めた。

それはそうかも知れない。ほとんどの部屋は、単身の男所帯ばかりで、

明らかにもっとしっかりとしたところを探すための

暫定入居に違いなかった。
 

だが一度、共同洗面所の前ですれ違って

軽い会釈をし合ったとき、 茂男の胸は高鳴った。

しかし、何らかの言葉を切り出すには、あまりにも小心であった。
 

さて、この三日後からだ。連日のように加世子は深夜、

金縛りに遇うようになった。

しかも、彼女は、そのとき必ず何者かのぼんやりとした影を見るのである。

その影も、時として異様な薄緑の燐光を放っていた。
 
 

<ああ、まただわ。誰か、助けて。あなた、幽霊なの?>
 
 

実は、そのとき茂男も金縛りになっており、例のごとく体を抜け出して、

夢の中で一生懸命、隣の部屋の情景をイメージしていたのだ。

同じ造りの部屋だから、こんな風だろう。

女性はこんな風に寝ているだろう。といった感じで。
 

ところが、そのイメージを固定すれば、自分の体が形をなさなくなる。

自分を固定しようとすれば、周りが砕けてくるといった矛盾が起きていた。

このため、加世子は実体の分からぬ影の脈動とゆらめきを見て

恐怖するということのようだった。
 

だが、とうとうこの事件、文化荘全体に広まることとなった。

夜の8時頃、隣室の前の廊下で、大家と加世子がその件で話をしているのを、

同じフロアーの入居者全員が、薄いドア越しに聞いてしまったのだ。

大家は、今までそんな話は聞いたことないがなあ、と弁解している。
 

しかし、やがて他の部屋から住人が出てきて、

俺もときたま幽霊を見て金縛りになる、と言いだした。

もう一人、また一人と言い出してきて、都合四人になった。

茂男には、そこまで遠征した記憶はない。

そういえば自分も含めれば、五人であり、

このフロアーの入居者の半数にはなる。
 

だからといって、加世子はすぐに転居するわけにもいかなかった。

茂男は、実態の知れないことをいいことに、悪いとは思いながらも、

また研究に励むことにした。

もはやそこには、いくらかの動機の不純さが含まれていた。
 

夜も更け寝静まり、またもや起きるか怪事件。

と、思いきや、今度ばかりは、そうは問屋が卸さなかった。

加世子がすでに寝入っているはずの時間に、実は彼女の男友達が、

幽霊退治といかぬまでも、彼女の警護にきており、

つい部屋の中を暗くした成り行きに任せて情事に及んでいたのである。
 

茂男は、隣室に潜入したまでは良かった。

だが、夢のイメージがいつになく赤みを帯び鮮やかで、

情景全体が歪みを呈しているのに気付いた。

茂男は、イメージを固定しようと図ったが、

奇妙な渦のような流れに方向を狂わされ、行き先の制御も不能となり、

やがてぎらぎらした溶鉱炉の淵のようなところにきて、ようやく止まった。

その中からは、はつらつとした魅惑の光が溢れ出ていた。
 
 

そのとき、「おいよお」と背後から声がした。

その声に、茂男がふと後ろを振り返ると、暗い天井を背景に、

奇妙な角刈りの男が見下ろしているではないか。

 
 
奇妙な男:「おう、お前さん。そこに下りて行くつもりなのか?」
 
 
茂男:「えっ?」

 
奇妙な男:「いや、あんたが下りて行かないなら、この俺が行こうと思ってな」

 

茂男が首を傾げると、角刈りの男はどこかに行ってしまった。

何だろうという考えも湧かず、茂男は再び溶鉱炉を覗き込んだ。

こんなときには、意志の力で元に戻ることもできただろうが、

茂男はなぜかそこに魅了されて、下りて行ってしまった。

 
 
奇妙な男:「おお、さいなら。それで構わないんだな。
こっちに住居があるというのに。贅沢な奴だ。

この住宅難、就職難の時代、みんな苦労しているというのによ。

ならば、こっちのは、この俺がいただくからな。

持ち主は、別のを新築しに行ったんだから、遠慮なしだ」

 

奇妙な男は、壁をすっと通り抜け、茂男の部屋に入った。

茂男はまだ、布団の上で目を開いたまま硬直して横たわっている。
 

 
奇妙な男:「むははは。うまく行ったもんだ。
だいたい金縛りなんて、幽霊の干渉なしで、なるわけないだろ。

しかし、ちょうどこれからっていう、いいのが手に入ったもんだ。

ああ、俺も生前は親分のために、命を張ることばかりでよお。

まともな遊びもできず、これからってときに酒におぼれて、

あっけなく死んじまったからな。

だが、これでまた酒が飲める。それにギャンブルもな。それから、

ナンパとやらをやらかしたりして、ふふっ、バリバリ遊んでやるか。

ろくに使いこなせん若僧には、宝の持ち腐れってもんだ」

 

奇妙な男は、茂男の鼻に吸い込まれるように入っていった。

しばらくして、また独り言が聞こえた。
 

 

奇妙な男:「うーん、けっこう学はあるようだな。難しい仕事もやっているようだし。

冷蔵庫、エアコンほか、オプション一式付いてるってやつだな。

だから中古はいいんだ。早いとこ俺も馴染まなけりゃな」

 

 

説明

さて、明日からも茂男は、表向き何事もなかったように暮らしていくことでしょう。ただ性格に、やくざっぽい積極性と荒っぽさと遊び癖が加わることだけは、致し方ないことかも知れません。
一方、元の茂男はどうなるか、お分かりですね。新たな歴史を踏み出すことを喜んであげたいものです。

米国の輪廻転生の研究者は、繰り返される化身のことを、Many mansionsと表現しました。それは霊魂の化身の遍歴が、ちょうど邸宅を住み替えていくのに似ていると考えたからのようです。
しかし、家のようなものだとすれば、所有権や借家権、あるいは不法占拠といった問題が発生しないとも限りません。

ところで、あなたは元の持ち主ですか? それとも・・? え? たびたび借家を渡り歩いてる? あ、これは聞くだけ野暮でした。


 P.S.
 その後、気の毒なことに茂男は、邸宅の棟上げ前に中絶解体の憂き目に遭いました。 このため行き場を失った茂男は、人間不信に陥って周囲にひどい祟りを及ぼしたようですが、やがて元の体を探し出して、あのやくざと交渉し、違和感を持ちながら仲良く同居するようになったとのことです。
幸か不幸か、いま茂男は、親の諫めも聞かず、金融取立業でバリバリ実績を上げ、派手な暮らしをしているとか・・。

 


comment
 
 
 
今回、ホラー3話に「世間の空隙」という総括題名を与え、
何事もないように見える世間の空隙を縫うようにして、
何事か得体の知れぬ事態が進行している可能性を
考えてみた次第。

3話とも勿論フィクションです。
もしあなたが怖がったりしたならば、
私に凱歌が上ります。



この物語はフィクションです。
登場する人名、機関名、団体名は架空のものです。

 







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