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第三章 渡来前秘史



 シュメールの良識は、人類への特別な神の計らい、すなわち惰眠という幸福からはかけ離れた霊的進化という目的のために覆い隠されねばならなかったようだ。
 神と人の間で神の計画を知り、それを担った賢者の努力はいかばかりだったか。

 (1)古代陰謀幻想
バベルの塔の事件とは
 シュメール文明は非常に理想的な域に達していた。だが、その都市国家群が互いに戦い、国力を衰退させ、やがてアッカドに滅ぼされて消息を絶つと、文化的退行が始まったのである。科学性、合理性で成り立った社会が転じてシャーマニズムのそれに変化してしまったのだ。

 奇妙なのは、この退行現象の事実が、シュメールの神殿ジッグラートを槍玉に揚げた、聖書の「バベルの塔」に象徴化されていることである。

 ジッグラートは、天上の神々との交流のステーションとして機能すべく、すべての都市の中心に置かれていた。天上の神々をもてなす場所としての名前の付けられたものもある。

 ギリシァのヘロドトスによれば、ジッグラートの先端にある神殿には、美しいカバーで被われた寝台と黄金の机があり、選び抜かれた一人の巫女以外は立ち入れず、ただ伝令だけが地上との間を行き来しており、一般人にはこの中に時折天から神が降りてきて滞在すると信じられていたという。つまり、神との連携を求めて創られた塔であるはずのものが、いつしか不遜な目論見の塔に位置付けられてしまっているのである。

「全地は一つの言語、一つの音だけであった。人々は東に移り、シナルの地に平野を得てそこに住んだ。・・そして言うには、『さあ、町と塔を建ててその塔の頂を天に至らせよう。こうして我らは名を高め、全地の表に四散することのないようにしよう』と。・・神が言われるには『民は一つになって一つの言語を使い、今まさに事を開始した。ならばその目論見は禁止されねばならない。さあ、我々は降って彼らの言語を乱し、互いに理解できないようにしよう』と。神は彼らをこの地から全地の表に四散させたので、彼らは町を建てることをやめた。・・」(創世記第十一章一〜七)

 もし、神がこれを行なわせたとするなら、人々はそれまで異なった神に付いていたのだろうか。それとも神の方針が変わったのだろうか。人々はこの時を境に新たな言語を築き、民族を分かち、地を四散して一から文明を開始しなければならなかったのである。

 ゴルボフスキーが指摘するには、戦乱と支配者の交替をきっかけに、知識は一般大衆から秘匿隔離され、指導者層におさまった神官層だけのものとなっているという。つまり、言語の混乱とは、指導者層の考え方の変動による一般人からの知識の剥脱を意味する寓意であり、全地の表に散るというのも指導者の考えから起きた民族独立事件と解せるのである。

 そこに神の圧力があったとするのが旧約の意見なのであるが、そうである以上、神とは実際何であるかが様々に論議されてきたことも事実である。真実唯一の神であるとするのは現在のユダヤ/キリスト教社会が是認する一般的な発想だが、聖書でも複数形の表現のなされる場合があるゆえに謎は深い。

 シュメール文明で奇妙なのは、砂漠という居場所をより好適な環境、他の地域に変える努力をしなかったことである。そこに彼らが崇拝したジッグラートの神殿に祭られる神の存在が不思議なものとして浮き上がる。

 時折天から降りてきて神殿に滞在する神。古事記にも、むかし大きな文明社会が壊滅した事件があり、その時点から天上の神々が尽力したと書かれることは既に述べた。これを神々と考えるか、高度に発達した地球外知性と考えるか、様々に推測されよう。それによってこれからの話に綾が生じるし、端緒から究極的な結論に至るまでの解釈も異なってくるかも知れない。

 とにかく、二つの時代の狭間というブラックボックスの中で、我々の祖先が何か強い薬を嗅がされた可能性が否めない。それをきっかけとして、神官層が知識の流出をセーブし、以後の人類の歴史の流れを陰からコントロールしていったとみられる。

 これを境に専制の王制が敷かれ、その影にシャーマン的神官や僧侶がおり、占いや予言が流行り、祈祷まじないの類いに覆われ、人々はそれに行動を縛られるようになるのである。少なくとも、近世に至るまでは。

 それは人類にとっての不利益に違いなく、不可知な何かが人間の本来在るべき姿を歪めたかと思いたくなる。だがそこに、大きな手掛かりを与えるのがカバラである。


霊的進化のための神の計画
 顕教である聖書では明確にされない、霊魂の輪廻転生論をカバラは持っている。これは、やはり聖書を元にするイスラム教や、インドをはじめとする東洋思想に共通のものだ。

 カバラによれば、人類の歴史に関して、別の大義、目的が存在するという。それは、地上的な事物とは別系統の霊的、宇宙的大義であり、このために地上的平和が犠牲にされねばならない事態すら是認されるというのだ。

 その霊的大義とは、霊的進化、意識的進化を促進することにあるという。人はみな、真の自分である霊魂を持ち、その出自は星煌めく天上にあるのだが、なにゆえか地に落とされて久しく、復帰途上にあるとしても、それを促進すべく様々な工夫が施されているのが、我々が直面する歴史だというのだ。

 また、その集合体である民族の集合精神や、さらに人類意識も存在が仮想されるが、すべて進化の階梯にあるときに、それらを有機的に進化させていこうとするプログラムが神によって与えられたと考えることができる。そこには、慈しみ深い神の恩寵を感じさせるものがあるが、カバラはもっと厳しい見解を持っている。

 カバラのテキストである創世記の中の、アダムとイブの楽園追放に象徴される堕落のきっかけとなった知恵の木の実のことを、カバラは寓意と解釈する。知恵の木とはカバラの元の知識で、いずれ神が人類に報せる宇宙と人類の秘密に関するものであったが、ある天使がそれを先んじてアダムに漏らしてしまい、その内容の悲惨さゆえに神を呪い、堕落を起こしてしまったというのだ。(前後*15より)

 その内容とは、ゼロから出発し、様々な葛藤の中でしだいに文明を進歩させ、最終的には滅亡を必至のものとする歴史展開の原型であったという。既に、古事記も聖書も、人類史を一年性草本的に捉えていることは述べたとおりである。これを知って、戦慄を催す人も少なからずいるに違いない。それゆえ、元の知識はその後、秘教とされた経緯であるという。

 我々は聖書の内容の厳しさと、潜在する恐ろしさに気づかされる。その典型的なものは黙示録であるが、それによると世のシステムを創っているのは悪魔であり、不完全な人間の為せる業であり、神はそれを粉砕する側に回る。

 世のシステムとは、いかに人間を幸福に豊かにするかを命題として、長い歴史の中で試行錯誤して築き上げられてきたものではなかったか。過去よりも今はまし、未来はなお明るい。少なくともそう教えられてきた。だが、聖書はそれを偽善であると断じ、人間の性根は始めから悪であるから、その創ったものは滅ばねばならないとする。そのくせ、黎明期にわずかばかりに残った前の時代の成果を隠蔽することを行なわせる。なんと矛盾に満ちたことだろうか。

 だが、カバラはそこに霊的な大義を認めている。聖書は「神の王国はこの世のものでない」とし、人生でどれほどの物質的成果を揚げたかではなく、どう生きたかに力点を置く。人の心は、程よく牧されねばならず、その結果、神の高処に達する進化が図られるというのだ。その考え方は、露骨に霊云々が説かれなくても、世の東西の主たる宗教思想に何らかの形で反映されていると言える。

 一章でみたカバラの修法の例も個人の霊的変革を目的とする意味で同じことを目指していることは間違いない。星煌めく天上の高処に復帰すべく、一方では霊的知識と修業法の付与により啓蒙するも、もう一方では戦争や文明の高度化、競争激化などの様々な擾乱の要素で、人の精神に揺さぶりをかける、相反する二面性が必要とされるということなのだろうか。

 また、狩猟、農耕などの旧態的な頭脳労働よりも、視覚を刺激し、手足を多様に使い、頭を様々に働かせる種々のものが与えられれば、人間の脳の機能も飛躍的に高まり、意識経験も豊富になり、翻って進化にも繋がろうというものか。今日に至って、日増しに進む科学技術の高度化とともに、人々のこうむる恩恵?は増大の一途を辿っていると言えるのではないか。

 これについては後程触れるが、古事記に究極的に実現されるべき最高の喜ばしい事象として、ニニギ(すなわち多大な賑わし)の命とその一族の天降、すなわち様々な高文明の利器が登場してくることとして預言されていることなのである。

 霊的進化と、地上の満たされた幸福とは矛盾する。そこに次に述べる謎の指導者階層の難しい行動原理があるようなのである。報せてしまえば、効果に乏しく、まったく報せなければ、悲惨に過ぎる。そこに過去から連綿として宗教思想の形で、適宜人の手に届くところに与えられ、信仰の選択の余地が与えられていたものではなかったか。


 

神の計画推進者の登場
 教訓と知識は過去から受け継がれてきていたのであるが、最初の理想的な国々が滅んだ後、それは神の計画に基づき隠蔽されたらしい。限られた知識者たちは、神官となり、持てる知識をもとに人々を指導する立場に就いた。シュメールにも神官はいたが、後の神官は、かなり性質の異なったものとなった。王を国の代表者として立てはしたが、政治の実権は彼らが握っていたのだ。

 そして、秘匿にともなって、知識が秘教カバラとして潜在する。その中には、人類の歴史展開に関する神の計画を根幹に、それを実現するための過去にあった未来知識が含まれていた。神官層はその特権のために選ばれた者となった。神の計画を遂行する集団が組織され、指導層に浸透し、知識の秘匿や民族の離散とそれにともなう新言語の開発、さらにその後の思想の多様化などを行なっていったようなのである。

 神の計画は、聖書に預言者の口を借りて寓意の形で伝えられているという。しかし、その内容を正しく理解できる者は、ごく限られた真の計画推進者しかいないであろうとされている。そして、神の計画推進の代行者を、「神の御使い」と位置づける。彼らはそのゆえに、初めから救われていることを了解し、行為と事態に超然としている。その最初の者が、神と人々の間の取り成し役となったオリエントの神官層であった。だが、後の者もいた。それが世界の政治や経済に関与し、歴史を誘導するとされる秘教組織(秘密結社)である。

 秘教組織は謎の組織であるが、よく譬えに出される場合を挙げると、カバラを奉じ、起源説としては定説がないとはいえ、古いものでは、アダムとイブの神話時代に遡るというもの、ソロモン神殿の建築に従わった石工組織、古代密儀宗教(エジプトのイシス・オシリス密儀、ペルシァのミトラス密儀、ケルト人のドルイド密儀など)など、旧いところに求める説から、近代に始まるというものまで諸説がある。(*39)

 石工組織起源の神話によると、開祖である石工職の統領がその昔、神から人類の進化に関する「神の計画」を知らされ、計画の推進者に任命されたという。このため、秘密組織を作り、そこで計画推進とそのための知識の伝承を担うべく、秘密厳守の厳格な戒律を作り、命令に従うことができ、資質があって志す者を参入させるという伝統を作り、今に至るとされている。参入者は、過去の自分における死と、組織における再生を象徴する参入儀礼を受け、新たな役割の中に生まれ変わって事に当たるというのである。(*11)

 特徴として、古代密儀に重きを置き、厳格なカースト制を敷き、様々な歴史の陰の部分を形成し、表立たない等の理由から、過去の神官層の流れを汲むものと推測される。

 むろん、以上の話は秘教組織の特徴を述べたもので、行動内容が分かってしまうような団体がその実体と考えることはできない。というのも、秘教は本来その存在を表に現わすことがないとされるからだ。

 真の秘教の目指す計画の構想は、アダムの楽園追放に対する楽園復帰、バベルの民族分離事件に対する世界統一、人類無知の開始状態に対する高度文明の創造、といった開始時点の対極への歴史の誘導にあるとされる。

 それを実現していく方法に、世間的な常識は通用しない。彼らは革命によって遅滞した空気に揺さぶりをかけ、新体制の熟成を陰からコントロールし、それがまた遅滞すれば変革することを繰り返す。そうして、神の計画のステップを代行していくというのである。オリエントの神官層が開始時点を条件付けしたのに対し、現代の秘密組織が対極を形づくるという関係において、両者は歴史の「阿吽」を導く同一の流れとみられるのだ。




 (2)オリエント秘史
人工的な神々
 シュメール時代の神々は、ある目的を持って神話を形成し、諸都市のジッグラートに祭られた。日本と同様八百萬神の様相を呈しているが、それは神話からも窺えるように、人々に天地自然の重要さと、国土を支配するのでなく、管理する者としての謙虚さを教え、国土経営の中の随所に、神の守護とアイデアが生きていることを教えようとしたものと考えられる。それは廃墟の中から生き残った謙虚な人々が、過去の教訓を生かそうとする合理的な考え方だったはずだ。

 だが、その滅亡後、知識を握るようになった神官層が、神々の操作を行なっていく。

 紀元前千年代の中頃に、神官達は神々の一定の目標を作成しはじめ、過去あらゆるところに林立した神々の受け持つ役割などに重畳が見られたので、その数を規格化する方法で、次第に減らしていったのである。(*16)

 規格化に伴い、神話の操作もなされた。シュメール時代の神話の原型を踏襲しつつも、神々には新たな性質が付け加わったりした。それは、林立する神々がもとより人工的であったことを意味する。そしてその効果は、人心のコントロールであり、人々は信仰の中に行動を束縛されるようになったのである。

 重要なのは、そのような神官層が本当に信奉していたのは、カバラ的でありユダヤ的な唯一神であったらしいことである。というのは、神との会見を目指すカバラの最高の秘儀メルカバで瞥見できる神像の要素が、バビロニアの最高主神マルドゥークの属性に集約されていることから分かるのである。

 バビロニア神話のティアマトと戦ったマルドゥークの出で立ちは、弓矢、三叉鉾、稲妻、炎を持ち、四方の風と七つの強風を副わせ、鎧と長衣を身につけ、頭から光を発し、四種類の嵐の怪物が引く車に乗り、口から強力な呪文を発していたというのであるが、これはエゼキエルの語った神の出で立ちにまさにそっくりである。

「我見しに、視よ烈しき風大いなる雲および燃える火の玉北より出できたる。また雲の周りに輝きあり。その中よりして火のうちより焼けたる金のごときもの出づ。その火の中に四箇の生物にて成る一箇の形あり。その様は是のごとし。すなわち人の象あり。各四の顔あり。各四の翼あり。・・その生きものの形はおこれる炭の火のごとく松明のごとし。・・その生物走りて電光のごとくに往来す。・・我その行くときの羽音を聞くに、大水のごとく全能者の声のごとし。その音の響きは軍勢の声のごとし」エゼキエル書第一章四〜二十八

 カバラ行者が専心したのは、エゼキエルが観たようなメルカバ(天の車)の秘儀の体得であり、まさに神々しいその光景を瞑想のうちに観ることだった。それと同様のものが天上の総帥権たる天命の書板を持つ最高神マルドゥークの性質であったのだ。

 シュメール時代には惑星の一つを示した(ゼカリア・シッチン説)とされる高位にランクされなかったマルドゥークに、様々なメルカバ的要素を追加して最高神としたのは神官層であった。つまり、神官の間には秘儀があり、そうした神々の崇拝体制の背後に統一した唯一神を頂いていたに違いないのである。限られた者だけに伝えられた秘教カバラの唯一神。人々の全体に伝えられた顕教であるバビロニアの八百萬の神々。そのどちらが正統かといえば、前者であることは一目瞭然であろう。

 メソポタミアの神々は、国と時代の変遷を経ても、よく受け継がれた。だが、神々は国の交替や王権の交替などによって、祭儀上の優位を容易に交替したし、特定の神に別の性質が付加されたりもした。それを合理的なものとして支えたのは、神話である。その創作者は、高位の神官達であり、そうしたことがなしくずし的にできたのも「真理は一つ」とする秘儀の神があったからに他ならない。

 預言者エレミヤは、バビロンの新年祭の神々の賑々しい行列を見て、人工的な神々のゆえに貶したことがある。その理由は、決してそれらが石や粘土でできていたからではない。バビロンの主神マルドゥークは、過去、高位の神ではなかったが、神話によって強力な神として復活した。そこには、いつしかメルカバにおける神の霊の性質が付加されていた。ネプカドネザルや市民は、カバラの神の偶像であるマルドゥークを観ていたのであるが、仕掛けを知っていたエレミヤは、秘教ゆえ論述不能のやるせなさを抱きつつも、何も知らない王や人々を揶揄したのであろう。



シュメール文化とともに浸潤した神官層
 一国の王は、近世でこそ民衆の支持によらねば成り立たなくなったと言えるが、オリエントの場合は、神官層の支持なくしては成り立たなかったようだ。

 知識を独占していた彼らは、知識の滅失を特に恐れた。特定の人から人への伝達はむろん、粘土板への記録も怠りはなかった。神官を育み、粘土板を保全する場所として、神殿や図書館や大学が創られねばならなかった。

 古伝の文化の保守存続と共に、その建設を行なっていく志のある為政者が望まれたことは、メソポタミアの歴史をふりかえることにより検証できる。(以降*16より)

 紀元前2500年頃、アッカド人がシュメールの都市国家間の抗争に乗じて、アッカドを首都とした国を建て、前2350年頃には、サルゴン王がシュメールを征服。シュメールの文化(楔形文字、神々の体系、色々な制度など)はことごとく採り入れられた。

 その後、数百年の間に山人グティウムにより荒廃させられたが、前2100年頃ウルクのウトヒェガルが追い払い、ラガシュのグデア王などは、古い伝統の復活と建設事業の推進を図ろうとした。しかし、西方のセム族、東方のエラム人により圧迫され、ウルナンムの法典を最古のものとして、シュメール人は歴史の舞台から消え去った。

 その後(前2000年頃)、アッカドは、北のアッシリア(首都アッシュール、後代にはニネヴェ)と南のバビロニア(首都バビロン)に分かれ戦ったが、すべてシュメール文化に負っていた。神々は名を変えてでも神殿に座を占め、日乾し煉瓦とそれによる寺院建築(階段神殿)、楔形文字とそれによる高水準の文学、人類初の科学の基礎、粘土板とそれによる法文などが踏襲された。一般にはシュメール文化が卓越していたからだと考えられている。

 前1728〜1686年、バビロニアのハムラビ王が法体系を編纂し、マルドゥークを国の最高主神に定め、ペルシァ湾からシリアにいたる大帝国を築いた。前1530年にはヒッタイトがバビロンを征服。ヒッタイトは、インド・ヨーロッパ語族で、セム語系のシュメール人やアッカド人とは違っていたが、やはり古伝の粘土書板と楔形文字を学び、歴史、法典、神話を残している。その後、バビロンでは、カッシート族が350年間支配。だが、アッカド語をはじめ、過去の文化的、宗教的遺産を忠実に受け継いでいる。

 アッシリアは、前745年のティグラトピレセル王期に、バビロニアを連帯統治。シリアやアルメニアなど他の敗戦国にあっては悲惨を極めたが、バビロニアは文化的に依存度の高いものゆえに好意的に扱われ、しかもバビロニアの神々はそのまま崇拝された。

 なぜ、シュメールの文化的遺産が王朝の変遷と長い時に渡って受け継がれ、その関係者が保護されたのか。その理由は、神官層がその持つ知識力によって、民族、王朝を超えて、時の権力構造に浸潤していったからとみられるわけである。

 我々は単に歴史の波頭のみを見るのではなく、バビロンの文化遺産を救った手腕有る者の存在を考えてみなくてはならない。彼らは、バビロンの文化遺産のなかに、謎の秘宝が隠されているとでも吹聴したのだろうか。それとも彼らは、時々の権力者に催眠術を掛けて思うままに操ることができたのだろうか。



神官に逆らった王とバビロンの末路
 アッシリアでは、サルゴン2世(前722〜705)が立ち、その息子センナヘリブのとき、バビロンの裏切りに遭い、怒った彼はこれを攻めて廃墟としたが、その息子エサルハドンに殺されている。エサルハドンは王位に就くとハビロン復興を直ちに手懸けた。

 バビロンは知識の宝庫、これを滅ぼすものは逆に滅ぼされるのだ。この一連の成り行きにも、文化遺産にまつわる利害を持った強力な第三者を考えれば理解しやすい。

 このころアッシリアは、イスラエルを滅ぼした(前722年)のを皮切りにメンフィス、フェニキアを征服し最大となり、エサルハドンの息子アッシュールバニパル王のとき、最後の全盛期となった。彼は時のバビロン王と対立し、前648年にバビロンを陥落し、バビロン王を兼務した。バビロンを落としたものの知識存続には前向の姿勢をとり、ニネヴェにアッシュールバニパル王宮図書館を造った。これは、出土した最古のものとして有名であり、既に述べたシュメールに関する多数の粘土板が今なお解読されているところのものである。

 以上の歴史の大枠を見ても、王権の不慮の中断や、一国の早い崩壊を招かないために、王は知識の存続保全に前向きでなくてはならなかったことが分かる。

 紀元前625〜538年には、バビロンの支配者としてカルデア(新バビロニア)が登場する。バビロニアの意志を継ぎ、マルドゥーク神を国家の最高主神に据えた。

 至って象徴的な事件があった。前605年に皇太子ネブカドネザルが父王ナボポラサルより全権を委ねられてエジプトと戦い、シリアへの橋頭堡カルケミシュを攻略して成功を収めた。ところが、そのさなか父が死去(8月16日)し、その報せを持ってカルケミシュに使者が来て、ネブカドネザルは、完全勝利を目前にしつつも、それを放棄し、急遽バビロンに戻って即位式(9月7日)を形式的にしろ挙げなくてはならなかった。その往復に要したのはわずか22日、片道八百数十キロの砂漠を、これ以上ない最速の乗り物ラクダで、11日間で踏破した勘定になり、無謀とも言える命懸けの強行軍をしたことになる。一国の王たろうとする者をこれほど焦らせたものは何なのか。それは彼の本土における人気だったという。

 王位継承をめぐって、神官、貴族の間で紛糾、場合によってはクーデターも彼の脳裏に浮かんだらしい。ベロッソスは「わずかな従者を伴い、急いで砂漠を通り、バベルへおもむいた」と記す。

 ところが彼は、遅滞なくハビロンに到着したとき、予想外にも行政権はカルデア人の手中にあり、貴族たちは王権を彼のために残しているのを見た。無事戴冠を終えた王は「司教を先頭とする高位聖職者に伴われてエサギラ神殿に入りマルドゥーク神像の手を握った」と伝えられる。つまり彼は、神と神官層に愛されていたのである。

 一方、次代のナポニドス王は、マルドゥークの影響力を弱め、月神シンを最高神にすべく行動を起こした。この行為は、神官層の思惑に反していたに違いなく、奇妙なことが起こった。オリエント随一を誇った国力が急衰退したのだ。

 ナポニドスは、神官層にうまく取り入ることができなかったと言うしかない。表面的には民衆の心の離反という形をとったが、国の政治を支える知識者層が離反し、官僚機構が崩壊し、結果的には弱体を突いたペルシァによって廃墟と化されて、バビロンは以後再び甦ることはなかったのである。そして、聖書においてバビロンは、滅びの象徴としてこっぴどく叩かれることとなる。


バビロンからの解放

 新バビロニアとユダヤの関係というと、ネブカドネザルの行なったバビロンの幽囚が著名であるが、バビロニアの神官とヤーヴェの神官(いわゆるユダヤの預言者たち)はどう動いたか。

 バビロン幽囚以前のユダヤの民にはバアル神やアスタルテ神が崇拝され、エジプトの風俗の流行が蔓延していた。それを警告したのが、唯一神ヤーヴェに立ち帰れと唱えた預言者たちであった。(バアルは天候神ダゴンの子で、ちょうど知識神エアの子のマルドゥークに相当する)

 まず、新バビロニアが勢力した前612年頃、ユダ王国ではヨシア王のもとで申命紀の改革が行なわれた。これは、ヤーヴェ神礼拝の集中化に目的があった。この頃、エジプトに敗北し、王ネコの任命でエホヤキムが新王になった。だがこの時、預言者エレミヤは王に不信を表明し、ヤーヴェの下僕ネブカドネザルが、ヤーヴェの民に対する剣となるであろうと預言した。

 その頃、ネブカドネザルの宮殿には、ヤーヴェのユダ攻撃を命令する声が鳴り響いたという。それに戸迷った彼は、その吉凶を魔術神官に占わせると、吉と出た。もし、声が本当にしたとなら、それは地下で繋がった神官層が仕組んだトリックだったかも知れない。 伝えでは、このことに気を取り直した彼は、離反したユダを攻撃し、595年にこれを征服し、新王にゼデキアを据えたが、彼も反バビロニア主義を掲げ謀反を起こしたので、587年にエルサレムを完全に破壊し、ユダヤ人の知識階級ばかり4600人を連行した。これがバビロン幽囚の真相であった。

 それはまさに、預言されたとおりのことと人々の目には映り、また後には民族大移動のように語り継がれた。

 この幽囚は、旧約で語られるほど、ネブカドネザルが狭量でなかったという。エホヤキン王はネブカドネザルの食卓で生涯食事を共にしたといい、ユダヤ人はすべてが連行されたわけではなかったし、待遇も半自由人として遠くに行けないという以外はバビロニア人と変わらぬものだった。ペルシァによる解放の時、バビロンの金融業界は、すべてユダヤ人に握られていたほどだったという。

 民族の伝統、風習、独自の宗教を維持することもできた。いや、むしろ宗教に関しては反バビロンを歌うユダヤ教色の強いものに変化することさえしている。

 なぜ連行したのが知識階級の者ばかりだったのか。うまくすれば、将来の離反も防げると見込めるのに、なぜバビロンの文化や宗教を、征服者の立場から彼らに押しつけなかったのか、不思議な点は幾つもあるが、政治を動かしていたのが神官層を地下で繋ぐ秘教組織だったとすれば簡単である。彼らはユダヤ民族を、次代のある目的のためにタイムスケジュールに組み込んだのだ。それは、神の計画の着実な成就を見届けさせる「証人」としてのものであっただろう。

 バビロニア人を虐殺し、バビロンを完膚無きまでにしたペルシァのキロス2世は、一転して囚われのユダヤ人には寛大さを見せ、祖国に戻ることを許可し、捕虜はおろかゾロアスター教への改宗の勧めさえ行なわなかった。そこにもただの幸運とは思えないものがある。

 この時、エゼキエル預言を心に携えたユダヤ人たちが自由になり、神官層も追放されたことであろう。だが、知識階層を欠いていたユダヤの地は瓦礫のままに打ち捨てられていた。そこで、豊かな暮らしに馴染んだ彼らが、果たして故地に戻ったかどうか問題とされる。

 恐らく「十二支族はいづれ一つにまとめられ、イスラエルの地に置かれる」というヤーヴェの約束を信じて、神官などとあい謀って、共に東を目指したのではないだろうか。周到な神官層の仕組んだこと、失われた十支族の行方に関する情報もどこからかもたらされようというものである。それを手がかりにして、長い道程の間にいくらか変化を遂げた人々がカバラを奉じて、新たなエルサレムを創るべく日本にやって来たかも知れない。

 ここからユダヤ民族の形成した歴史は、二つに分かれてくることになるだろう。その一つ、故地を諦めた者達によって、東方の歴史が形成されることになる。東西の情報の繋がりにおいて、シルクロードが果たした役割は大きいが、空間の隔たりもまた大きく、やがてそれぞれの立場で歴史が作られていくことになるのである。



   

 
 (3)東洋での展開

バビロニア的な古代日本
 カバラは、成立に関してユダヤ教と深い関係があるが、ユダヤ人だけの持ちものではない。だから、古代日本にカバラが影響を与えているといっても、宗教がユダヤ教になるとは限らない。最も政治能力の有る者が、最も習熟した方法で人々を治めるものである。新しい土地では、なおさらそれが無難なやり方となるであろう。

 バビロニアにおける宗教と日本の古代宗教の共通性は次のようである。

 バビロニアでは、都市国家の運営などの大目的を持った守護神には、マルドゥークなど2、30の主要な神々が割り当てられ、個人の守護神、氏族の守護神、たずさわる事柄にまつわる守護神、支配神が、個々の人間の幸福、利益に関わるものとして登場し、八百萬の神々の様相を呈していた。それは、日本における社寺の祭神の構図、氏神信仰や初詣に見る御利益信仰の構図にまったく似ている。

 また、バビロニアには、神殿を治める神官の他に、魔術的方法で治病、魔除け、占いなどを行なう職業的な魔術神官がいた。特に、病気の治療は、彼らの職域であった。彼らは巫師、祓魔師として神懸りしたり、神託を聞いたりして、依頼者に処方箋を与えた。

 一方、卑弥呼は、神の託宣を受ける巫女であった。神道における神官や補助的な巫女も、神と人間の仲介者である。また、奈良、平安朝の巷には、祈祷師、陰陽師、符術師などが病気封じや凶事祓いの場で活躍していた。それらは、バビロニアの神殿神官から、巷の魔術神官までに対応している。

 バビロニアでは魔術は学問とされ、大学などが設けられており、神官はそうしたところから輩出されていたが、日本でも神官、僧、祈祷師、陰陽師などになるためには、神道、仏門、修験道、陰陽道などの各修業機関に入って教育を相当程度必要とした。

 バビロニアの人々は、神々との関係で規範を受け、祭祀上の規則や生活上のタブーによってがんじがらめに縛られていた。規則を破れば、将来に確かな罰が約束されると、神官の口から(凶事の祓い、病気治療などの際に)折りにふれ説かれたからである。免罪の護符なども作られていた。

 日本でも、特に平安朝期においては、神仏の祭祀や生活、行動の多面にわたってタブー尽くしであった。特に都人における方位学の影響は顕著で、どこに行くにも日を選ばねばならなかったし、同じ家の下にも、配置すべき物が細かに取り決められ、凶事発生のときには、重箱の隅を突くようにして問題箇所が調べ直された。病に罹れば、加持祈祷に頼り、魔除けの護符が頻繁に発行された。その様相は、まったくバビロニア的と言ってよいものである。

 一方、ユダヤ教的な思想は日本でどうなったのか。ユダヤ教が確立したのが新バビロニア時代であったといっても、多分に前身的なカバラに依っていたに違いないが、それは一章で述べたように神道に多く祭祀の在り方に関する類似が指摘できる。宮中でも皇室はじめエリートの守秘するところであったろう。

 バビロニア的側面は都市部で顕教に据えられ、カバラ的側面は秘教としてエリートが知識し、特に実習に関わる者は保護されて山に置かれたのである。山に置かれた者は先修験者というべきものであり、初めは保護されていたが、そのうち弾圧の対象となってしまったようだ。

 このように、日本にはバビロニア的な習俗の側面があるが、むろんそれに関与した民族がダイレクトにやってきたわけではない。ここで東洋におけるユダヤ人と秘教組織の動きを追ってみよう。


秦への浸潤
 まず、カバラを携えた彼らはシルクロードを辿り、巨大文明国中国に到った。だが、満足するに足る土地になり得たかどうか。

 時に中国の秦王朝は、戦国時代の群雄の一であり、シルクロードの起点である中国大陸西部に根拠し、西からの流浪民を受け容れる下地は十分にあった。始皇帝が全土を統一(前221年)の後もこの地の・陽に都した。

 イスラエルは500年も前に滅亡し、もし秦が拒まなければ流入定着は十分なされていたはずで、またそれを追ってバビロン幽囚を解かれたユダヤ人の入ってきた時間的な可能性も十分にある。

 そうであれば、彼らがカバラの魔術概念を持ち込んでいた可能性は大きいわけであるが、始皇帝はそうした思想に事実上没頭していたことが知られている。むろんそれは、カバラとは明言されてはいない。が、もしそうであれば翻ってキャリアーたるユダヤ人の保護には繋がったことであろう。

 始皇帝は、その一生を魔術に徒したといってもよいほどの神秘主義者であった。(以降*47より)若年にして「河神の図録」という魔術書に親しみ、星の運気を駆使して天下を治めたとされている。占星術はカバラの本領であり、その名残る西洋占星術と中国の占星術の十二宮の概念の類似は顕著である。また、河神というのはオリエントの河辺の文明の神を思わせないではいられない。

 天下を統一した彼は、都造りのためその周囲に数多くの宮殿を造る際、天宮の運行に基づいた形に配置した。そして、死に至っても地下界で君臨すべく、始皇帝陵の地下の巨大な玄室には、文武百官の像、金銀細工の動物、玉石彫りの植物を並べ、宮殿や楼閣を設け、天井には日月星辰を、床には全領土の山河のパノラマを展開させ、渭水、黄河、長江などの模型には水銀が実際に流されていたという。この辺、錬金術などのカバラの片鱗も窺える。加えて、地下界の思想といい、巨大墳墓の機能といい、形を変えたとはいえオリエント的であることは否めない。

 始皇帝は、側近に常に多くの方士を頼み、政策上の提言をさせている。彼のブレインであり続けた方士とは、道家思想家とされるが、医療や建築、占星術や預言さえもこなし、いわゆるオリエントの魔術神官の感がある。老子が始めたとされる道教は、紀元前4世紀頃の成立とすれば、カバラの中国版焼直しと考えられなくない。仙道はカバラの奥義とよく似た方法論を持つことは既に述べた。

 万里の長城の建設のきっかけは、方士・盧生がどこからか持ってきた録図書の「秦を滅ぼすものは胡なり」という記述が憂慮されたからであった。これは一種の預言であり、人知を絶して正確なものだった。問題はそれを解釈する側にあり、「胡」とは西北方の異民族のことではなく、彼の死後政権を握った息子の胡亥であった。始皇帝もダニエルのような人材が欲しかったところだろうか。

 また、始皇帝は、道教にいう不老不死の話を信じ、それを体得した仙人を捜させたりもした。世界の情報が一堂に分かる今の世だから様々な情報を比較して分かるのであるが、不老不死はオリエント発祥の思想。それに関わるカバラの修法と、仙道で気を練り不老不死の金丹を作る修法は極めて似ている。

 だが、始皇帝は簡便な噂の方を信じた。海外に具体的な仙薬があるという噂を聞き、その探索をしようとしたのである。その結果が方士・徐福の申し出から発した東海の洋上の蓬莱島に居るという仙人探索の計画実行であった。徐福は、数千人の童子童女を連れて、航海に出たという。彼が方士なら、元の神官層の流れを汲むものと考えられ、多分に東海洋上の日本に先んじて渡った十支族の捜索のために一策を練って、始皇帝から費用と人手を出させたものかも知れない。徐福とは、ユダヤ人ジョセフだという説もある。

 徐福が日本に渡ってきた形跡が、新宮市にある徐福の墓である。この付近には、蓬莱にちなむ地名がいくつかある。彼の行動の舞台が熊野でなくてはならない理由があるなら、かのカバラの曼陀羅が考えられる。もしかすると紀元前3世紀頃には、すでに国体レベルの祭祀が稼働しており、それが東海洋上の神仙伝説の源となっていたのかも知れない。

 甲斐の国の旧家、宮下家で代々伝えられていた通称「富士古文献」は、徐福が富士に到ったときに神代文字の資料を見て漢訳したものだと伝えられているが、この中には富士山麓を中心にした超古代における神々の華やかな文明の有様と、やがて悪の力がおよび、善神と悪神が超兵器を駆使した戦いの末、共に滅んだという歴史(インド神話や古事記にも書かれていること)が書かれている。

 また、富士を初めに訪れた建国の神々は、ペルシァの北東部からシルクロードを辿って非常な苦労をしてやってきたと書かれているのであるが、この部分が何やらアッシリアに滅ぼされたイスラエルの浮囚の渡来した事実を物語っている感がある。つまり、徐福は失われた民族を捜し当てたのかも知れないわけだ。

「イスラエルの王ペカの世に、アッスリヤの王テグラテピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテマアカ、ヤノア、ケデシ、ハゾル、ギレアデ、ガリラヤ、ナフタリの全地を取り、人々をアッスリヤへ捕らえ移した」(列王紀下十五章二十九)

「そしてあなたは、彼が別の穏やかな群衆を自らの許に集めるのを見たが、これらはヨシア王の時代に捕らえられ、その領土から連れ出された九つの部族である。アッシリア王シャルマネサルがこれを捕虜として連れていき、河の向こうへ移した。こうして彼らは異国に連れていかれた。しかし彼らは異邦人の群れを離れ、かつて人のやからが住んだことのない更に遠い地方へ行こうと相談した」(第四エズラ書十三章三十九〜四十一)

 徐福がもしも魔術神官の一人なら、イスラエル部族在りの情報は大陸にいる征服欲にかられた始皇帝などではなく、必ず方士仲間に知らされたことだろう(始皇帝に知られたなら、恐らく日本はもっと早くから安寧ではなかった)。連絡成ったか、呼応するように秦の滅亡後、秦に居たとみられるユダヤ系の民が朝鮮半島に向かい南下を始めるのである。

 徐福の消息は不明である。多数の船と資金を賜ったはずの始皇帝の許には、再び帰ることがなかった。始皇帝はなおのこと仙人捜しに地道をあげ、多くの方士を各地に送ったが、帰ったのがただ一人、不吉な預言を持ち帰った盧生だったというわけだ。その盧生もやがて始皇帝の横暴ぶりに都を逃げ出し、忠実な顧問に裏切られたと思った始皇帝は、怒りを内外の方士や学者に向けて生き埋めにした。これが抗儒の内実であったという。

 神託、預言は、実にバビロニア的でありユダヤ的である。また、始皇帝の心を捉えた道教の奥義仙道は、師から弟子への口伝でのみ伝えられ、どうしても文字にする場合には、わざと欠字にしたり隠語を用いたという。それは、まったくカバラ的である。古事記も同様に隠語で成り立っている。

 仙道の発生に関しても、天地の中心神である原始天尊から人頭蛇身の伏儀、神農、黄帝、老子へと伝えられたという神話があるが、これもヤーヴェから蛇天使とアダム、ノア、アブラハム、モーゼといったカバラ伝承神話と似ている。
 さて、以上の話に、オリエントに発する神官層が、どのように時の権力者に取り入り、巧みに操ることができたかの見本を見る思いがしないだろうか。だが、始皇帝は彼らの予想以上に横暴でありすぎたようだ。




日本への流入と倭人の動き
 ユダヤ人の古代日本への渡来に関する考え方は、先学によってかなり出されている。それも、時代を分けて何段階にも行なわれたとするのが妥当とされている。

 篠原央憲氏らの諸説(*19)を基にまとめてみれば、まず渡来の最も先遣的と考えられるのが、既にしたように、北九州の国東半島を拠点として、一大製鉄所を設けていた一団である(前7世紀頃)。

 その技術は、ソロモン時代のものと同じであることから、多分にタルシン船団で遠洋航海したヘブライ人、ヒッタイト人、フェニキア人でなる一団であるが、彼らは貿易の民であり、日本の覇をかけて戦うすべの者ではなかった。しかし、その後朝鮮半島から北九州に移った民族が日本制覇の切札として彼等と結びつき、鉄器を利用して勢力を拡大した可能性がある。

 次の時期(前6世紀〜前4世紀)にあたるのが、「失われた十支族」と呼ばれる消息不明の民族である。

 これについて篠原氏は、朝鮮史の「いにしえの亡人、秦役(滅亡時の混乱)を避けて韓国へ来たる。馬韓、東界の地を割いて与え、辰韓とす」「その人形皆大で、衣服清潔、また宏巾細布を作る」「言語風俗異なり」「鉄を出す」の記事に該当するとしている。

「いにしえの亡人」とは単なる難民でなく、太古から流浪を宿命づけられている、中国朝鮮人とは体型、習俗、言語の異なるユダヤ人だというのだが、筆者は、既にに後追いの幽囚を解かれた二支族も加わっていたと解釈する。秦に至る十分なタイムラグがあり、前述の方士の活躍を考え併せればそうなってくる。

 それは第三波(前1世紀〜後2世紀)ということになるが、一つの統一された思想を以て積極的に日本に新国家樹立のアプローチをした者でもある。彼らは新天地で一つの歴史の実現を図ろうとするとともに、過去に離散した民族をまとめる使命を持っていた。先遣者徐福の情報があるいは刺激になったかも知れない。

 彼等は、秦の滅亡にともない朝鮮半島にやってきた。馬韓はそれを忌み嫌い、山岳未開の東界の地に去らせた。そこで辰韓を創り(前2世紀初)、その後速やかに南下して、朝鮮最南部に弁韓を創った(前2世紀中)。弁韓は、十二支族が暗示的ともいえる十二国に分かれており、後に日本領任那となる。この模索の先に、日本列島があった。

 「倭」国の観点からアプローチする研究もある。

 論語の中で孔子は、国内で道徳の廃れを憂いて「もし海に浮かば、九夷に居らんと欲す」と言った。九夷とは、九番目の蛮族の地で、東海洋上の島々を指すが、前5世紀初頭の頃、この地の者は本国よりも礼節を心得ていることを言ったものである。

 これをみても、中華思想を持つ中国が海上の日本に対してどのような注意を払っていたかは、容易に察することができる。朝鮮半島でさえも、万里長城をはるか北上して厳寒の地を経て至るものであり、北西南方の蛮夷の地と同様、開拓の価値なしの印象を持っていたのである。

 だが、この方面からは親中国的な使者が、再々訪れていた。そこで、いつの頃からか、彼等に敵意なくむしろ帰順の意志のあることを見込んで、中国政府の意志は届かないが、辺地の代理統治を特別に認めるという意味合いを込めて「委ねる人」すなわち「倭」と名付けたようである。それが果たして土着の民の社会であったろうか。恐らくそうではなく、中国の威光を知る都落ちした人々の作った社会であったからこそ、礼節を保っていたのだろう。

 前3世紀の山海経には、初めて倭の地理位置が「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」と示される。倭が実際に燕の属領となっていたというより、燕とは「委ねる人」としての関係が深いことを言ったものだろう。また問題にすべきは、燕は今の北京を首都として東を遼河まで、そこから鴨緑河までを蓋が、そこから南の朝鮮半島以南を倭が領有していたということである。つまり、倭とは、成立当初の馬韓を含む朝鮮半島一帯のことだった。その後、朝鮮半島には、前2世紀初頭に異民族が辰韓を、さらに南下して弁韓を創る動きがある。

 その頃の倭は、後漢の班固の手になる前漢書地理誌に「楽浪海中に倭人あり、別れて百余国、歳時を以て来たる」と誌される。この文からも、倭が日本列島のみという説は成り立ちそうもない。朝鮮半島内の部族乱立の過渡的有様を示しているのである。

 紀元57年成立の後漢書東夷伝には、倭国から大夫と称して使者が洛陽にきて、光武帝の印綬(漢倭奴国王の金印)を受けたと誌している。この金印は、志賀の島で発見された。紀元前後する頃、北九州には倭人の部族国家が続々と誕生していたのであろう。

 3世紀の魏志韓伝には、「韓は帯方の南、東西は海を以て限りとし、南は倭と接す」とある。つまり、まだこのときにも、半島の南に倭は根拠しているのである。そして有名な魏志倭人伝となる。この場合も、半島にある狗邪韓国を含み、対馬から日本へと、倭国は続いているのである。そうするうちに、倭は半島の根拠をなくしていったが、そのぶん力を日本平定にかけていたのであろう。

 倭はこうして、様々な人種が混淆した形で日本列島に重心を移してきたと考えるのが望ましいようである。



第三章・了

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