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古語"かささ"とは最先端という意味である。



後に出てくる"をはり(尾張り)" 最後尾との対語になっている。



 


第 一章 封印された地上絵

 まず、日本の国土をキャンバスとする見えざる地上絵、精妙な幾何学図形につい て御紹介しよう。

 その前に、距離の計算法についてお断わりしておこう。結果からの 逆推理であるが、古代人は数十、数百キロ離れた祭祀霊場を巧妙な位置に配置するのに、先文明の遺物を引き継いでいた可能性を想定し、手元に何らかの精巧な 地図があり、そこで線描を行い、地形を確認しながら各地に布石していったものと仮定する。

 その線描の際、古代人が正確な距離計算をしたかどうかは知れな い。ともかくこちらはなるべく正確を期すため、距離計算にあたってはオリエントで多用されたピタゴラスの定理を用いるも、球体による補正のため二地点間を 多分割して詳解を出すやり方でコンピューターにかけてみた。(付録参照) 
 ただし、元より広がりのある祭祀霊場を便宜上、点で与えたことにより、 多少の誤差が否めないこと。また、場所によっては後世の移転が否めず、原理の側から位置を理想化した場合もある。こうしたことを予めご承知願いたい。


 (1)幾何学的に配置された古代祭祀霊場
 
九州の直角二等辺三角形

 古事記上つ巻の「天降」の段には、あたかも高空から鳥瞰するかのように、ニニ ギノミコトが天降する様子が書かれ、同時に九州のいくつかの地名の記載がある。

「かれここに天の日子番の迩迩藝の命、天の石位 を離れ、天の八重棚雲を押し分けて、伊都の道別き道別きて、天の浮き橋に、浮きじまり、反り立たして、筑紫の日向の高千穂の霊じふる峰に天降りまし き。・・中略・・ここに詔りたまはく、『此処は韓國に向ひ、笠紗の御前にまき通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。かれ此処ぞいと吉き地』と詔り たまひて、・・」
「筑紫の日向の高千穂の・・」のことを一般には、太陽信仰に基づ き、筑紫からみて高千穂が太陽の昇る方角にあるという意味であろうとしている。ところがこれらを独立した三つの地点としたとき、三地点は一線上に並ぶので ある。(図1・1)




 日向は現在の日向市、高千穂は宮崎県の高千穂峡と想定。筑紫は古来北九 州を指すとされるが、その語源は「着く州」すなわち船の着く河口の土地の意味。となると、さしずめ古代玄関港の博多の那珂川河口が候補で、最古の部類の祭 祀霊場、住吉神社によって地点が特定できる。この線上には、金印の出た志賀島もある。

「此処は韓國に向ひ、笠紗の御前にまき通りて」も重要であ る。笠紗は鹿児島県の野間崎の笠沙のこと。向ひは日向のつづりを逆転したもの。韓国は霧島山系の韓国岳と仮定すれば、同山頂を線分(笠沙―日向)の真中点 に置いて三地点が一線に並ぶのである。そればかりか、筑紫―日向―笠紗は、短辺172Km 、長辺243Km(=172Km X √2) の直角二等辺三角形となる。これは不思議なことでありはしないだろうか。

「まき通り」も「巻き通り」もしくは「曲ぎ通り」とすれ ば、日向の地点における線描の書き方を暗示しているようでもある。(日向の地点設定は、その謂れの転化かも知れぬ日向市の「切通」で経緯度を与えた)

 これらは単なる偶然だろうか。直角二等辺三角形は、意図的に準備されて おり、解読法を神話の形で用意していたとは考えられないだろうか。もしそうならば、巧妙に隠された地上絵と言える。神話がいみじくも表現するように、高空 から鳥瞰するのでなくては描き表わせない地上絵である。それはナスカなどの比ではない技巧的かつ壮大なものだ。

 線分(筑紫―日向)のラインを「天降ライン」と呼ぼう。このラインと平 行し、補助するようにして、スサノヲ神の三姫神を祭る、宗像の奥宮(沖の島)、中宮(大島)、辺宮(宗像大社)が、やはり一線に並ぶが、これも何かのヒン トのように思える。

 つまり、神道では、神々の霊力は上位(奥宮、荒魂)から下位(辺宮、和 魂)へと天降るものとされるが、この時の入射角度は、神霊降下の方位を表わすものとして認識されていた可能性がある。また同時に、民族と文化がやって来た ルートを暗示するかのようでもある。

 さて、古事記は皇祖の九州鎮座の神話を載せ、皇室はそこを発して畿内に やって来たとされるので、次は畿内に目を転じてみよう。すると、天降ラインに沿ってみられる地名と地形が、まるで模写されたかのようなラインが近畿にみら れる。明日香を通る南北のラインである。(図1・2)




 地名の読み、地形の対応に、かなりの類似がみられることは、九州、畿内 のどちらも同じ民族が根拠したことを物語っていようか。

 この時には、先程の神霊降下の方角が北から南となって、都市造りなどに 採用されたらしい。もし、九州の幾何学図形が本物なら、畿内にもこの南北ラインの関わった何らかの幾何学図形が存在していて然るべきであろう。


 
畿内の聖数比の直角三角形

 イザナギノミコトの御陵には、古事記の伝承本によって、「淡路の 多賀」「近江の多賀」の二説がある。学説的には一方の誤伝であろうとされているが、それぞれの地に伊弉諾神社、多賀大社が設営さ れ今日に伝えられていることをみると、双方とも重要なのは確かなことであろう。古事記を暗号化文献とみる立場からは、そこにも作為性を汲み取るべきなので ある。

 淡路と近江(淡海)は古語で「あはぢ」、「あふみ」であ るが、語義を分解して考えると、表1・1のような対応になることが分かる。この二者は、陰陽の対立を刻明に表わした言葉であり、阿吽は開始と終了を暗示 し、地(土)と水は、国生みにおいて対立する二つの要素である。それが「逢ふ」というのだ。




 古代人は、和歌の掛詞や縁語などにみるよう、一つの言葉であっても表情 豊かに複数の意味を込めて表現した。淡海はもともと琵琶湖のことだが、淡路島とは外観上似ている。古代人はいつしか両者の形の類似を知り、呼び名で両者が 身と蓋のような関係にあることを表現していたらしいのだ。それは、今様に言えば、相似の関係にあるということになる。ここに一つ、古代的な幾何学的発想を 垣間見ることができる。

 次は多賀である。これは、今でも「タガが外れる」などと言うように、古 語「たが(束)ぬ」(複数の竹木を組み合わせる)に語源があるとすれば推理に弾みがつく。つまり、多賀とは「ものの組合せの要」を 意味するとみるわけである。それを古代人が与えたヒントと考えるなら、幾何学的に組み合わせて(結んで)みようという気になるのは、何も筆者ばかりではあ るまい。そこで試みる段になった。

 ところが、淡海の多賀のポイントは湖東陸上にあり、淡路島の多賀の相似 の位置に対応づけられない。そこで、淡路の多賀の対称点を琵琶湖に求めると、そこには沖島がまるで都合良くある。このため逆 説的ではあるが、初源的には沖島こそが多賀大社の奥宮ではなかったかと考え、理想化して沖島を第二の多賀と仮定してみる。もう一つ、淡路の多賀の等緯度線 上、東の彼方に伊勢の内宮がある。式年遷宮が繰り返されたとはいえ、古来よりこの辺り一帯が伊勢の霊場であった。これもまるで都合良すぎる 感があるが、第三点に選ぶ。

 このようにして三点を結んでみると、不思議なことに、伊弉諾神社―沖島 ―伊勢内宮は、ほぼ正確に5対4対3の直角三角形を形成するのである。(図1・3)




 この比率は古代日本では類例がみられないが、オリエントやギリシャでは 神聖比率として尊ばれていたという。また、伊弉諾神社―伊勢内宮の距離は、171Km 強と計算され、九州の直角二等辺三角形の短辺の距離 と一致しているとみてよいほどである。これは九州と大和が同じ原理で線描されたことを、ほぼ完璧に示すものではないか。

 なおも、裏付けとしては、伊弉諾神社―伊勢内宮の中点が明日香と なることである。しかも、ここを通る南北ラインこそ、先にした天降ラインを模写したものなのである。それは明日香、奈良、京都といった重要な祭祀都市の設 営位置に基準を与えているものとみられる。奈良東大寺の等緯度上においては「尼(天が)辻」(天の道の意味に解せる)の地名さえ遺されている。

 さらに、伊弉諾神社―沖島の線上には京都御所、北東への 延長上には荒ぶる神の山、伊吹山頂、その間を隔すように和魂の霊所比叡山頂がちょうど載る。殊に京都御所は比叡山と下賀茂神 社で北東(鬼門)からの荒ぶる力から守られているという伝えが古くからある。その初源的原理がここに潜んでいるとみてよいのではないか。

 また、二つの多賀(伊弉諾神社―沖島)の中点になるのが箕面の六 箇山であるが、これは「向こ」すなわち古代の幾何学表現「対向」の意味からきている呼び名とみられる。周辺の武庫川、六甲山(古 名、むこの山)、向日市も同様であろう。日本国中探しても、対向にちなむ地名は他に四例しかなく、うち広島県尾道市と山口県防府市の向島の場合は、客観的 に島が本土に対して近接し向かい合っている理由から付けられている。二つの多賀を結ぶライン沿いの一帯に多い、由来の定かでない謎の地名群は、淡路島と琵 琶湖の相似図の対向を言ったものでしかあるまい。

 また、イザナミノミコトの御陵である比婆山は、何も島根広島県境の比婆 山と特定することはなく、比婆=ひは=琵琶と転じたとも考えられる。それが山でなくてはならないなら湖上の山、沖島かも知れない。ならば、この場合の「向 こ」とは、国生みの男女神の対向の構図を示すというわけだ。比良や坂本という神話上の地名も琵琶湖周辺にみられるのはそのためか。とにかく、神話 の構図が地上に幾何学的に反映されているわけである。オリエントでは星空に神話を描いたが、古代日本では周囲の地形環境に神話を描いたと言えるだろう。


 

祭祀霊場の配置にみる距離規格

 以上のポイントをもとに、その周辺を調べてみると、シンプルな幾何学性 質と特別な距離規格の認められるものがたくさん出てきたので、図に従って説明しよう。

 [図1・4] 祭政一致の古代にあっては、都市とは人口の集中した祭祀霊場というべきものであろう。 まず、沖島―多賀の四等分点は東から京都御所、六箇山、平家の都福原に位置する。その間隔は35Kmで多賀―伊勢(171Km )の1/5長となる。  
 また、多賀―伊勢の中点明日香から真北に25Kmで平城京の中心部となり、そ こから真西に25Kmで難波の都(上町台地)となる。これは多賀―伊勢の1/7長である。

 歴代の都の中にはこれに依らないものも造られたが一時的なもので、歴史 上重要な位置を占めたのは幾何学ラインに関わる都であることが分かる。平清盛が都した福原は比較的後世であるが、基本を逸していないのは皇室との親交が深 かったからであろう。それが断たれた鎌倉時代以降の武家政権では、原理が反映されるべくもなかったようだ。

 また、南北ラインの北辺の福井県遠敷郡の若狭神宮寺は、 平城京の東の東大寺との間に、地下水道で繋がるという伝承があり、聖水を送受する儀式が遺っている。この距離は86Kmで、多賀―伊勢の1/2長と なる。
 また、期せず若狭神宮寺―明日香は111Kmとなる。これは地 球の平均1緯度長を示しているのだが、まぐれなどではなく、後述する図形で主たる規格となるものである。

 まとめの意味で、今後の図形に関わる距離規格の4つを掲げておく。
 @171Kmノ1/7( 25Km)A171Kmノ1/5( 35Km)B171Kmノ1/2( 86Km)C111Km〓平均1緯度長(子午線全周/360) 

 [図1・5] 琵琶湖上の島々との関係にも奇妙なものがある。
 明日香―沖島は86Km、その25Km延長上に竹生島が位置し、伊吹山頂とは 等緯度なので、互いに相似である7対2の二等辺三角形の対向の構図になっていると言える。
 もしかすると竹生島と沖島は、神の尊容を祭るための古墳ではなかっただろう か








 [図1・6] 中国地方から近畿地方にか けて、およそ86Kmの規格に基づくとみられる平行四辺形 (菱形)が連鎖する。

 中国山地の那岐山は古くからイザナギノミコトを祭る神体山であった。市 島は「斎き島」の転で、ピラミッド型神体山・小富士など秀麗な山体が多いが、強い呪術力を以てする大物主神を奉ずる三輪山ゆかりの鴨氏の所領であった。

 尾張の元熱田は、現熱田神宮位置がかつて海であった頃の元宮のこと。た だし位置不明のため、原理の側から導いた位置を名古屋市守山区の東に与えた。この近傍には、尾張第二の宮と言われた尾張戸神社があり、また実体の分からな い天降の里と名付けられた宗教地があり、謎の聖域を醸している。 

 沖島を含む東西のラインは、若干西下がりとなっている。しかし幾何学模 様としては、8対6対5の比率の平行四辺形の繰り返しが画策された感がある。むろんそれなら聖数比の構図であるが、後述する黄金比率の構図とも近似してい る。この辺の厳密性は事情により与えにくいので残念である。

 [図1・7] 沖島―明日香を一辺(86Km)とする正方形を試してみた。するとその一隅に、丹 後の元伊勢皇大神社(内宮)が偶然に位置した。(外宮は内宮の約1.5Km 南)

 元伊勢はその名のとおり今の伊勢の地に遷座される前に、天照大神、豊受 大神を祀るべく定め置かれた地であるが、真の所在地としては疑問視される向きもあった。しかし、特に元伊勢内宮の地点で、後述の様々な幾何学図形が満たさ れるのである。





元伊勢と出雲は2緯度長構図のカナメ

 記、紀には記されていないが、正史外文献「秀真伝」には 天照大神を内宮、豊受大神を外宮に祀ることになった経緯とともに、この地に最初に内外宮が定められたことが書かれている。(*10)

 それによると、はるか神代の時代に天地が造られた後、地上で神々の統治 が始まり、その五代目が豊受神で、その子イザナギ尊が七代目、またその嫡子(男神である)天照大神が八代目を継がれたとされている。

 内外宮に対置して祀られるのは、天照大神の教育を祖父である豊受神が尽 力された縁により、また元伊勢の地の所以は、豊受神晩年の時に出雲の役人の不正を機に丹後の宮津で執政されたがこの地でなくなり、比沼山の真名井原に尊容 が納められたが、後を継いだ天照大神も将来、豊受神の地に祀るよう諸神に遺勅された経緯によるという。そうした超弩級に由緒ある地と秀真伝は伝えるのであ る。

 その後、人皇の世になって、大和笠縫(崇神天皇期)、さらに伊勢(垂仁 天皇期)へと遷座されたこととなる。

 伊勢神宮の発祥について、神社庁はこの地の元伊勢を最初とはみなしてい ない。またこの地にあっても宮津市内の篭神社の方を正統と論ずる向きもある。だが、幾何学図形はまさに加佐郡大江町の元伊勢を最重要地点として描き出した のである。

 元伊勢内宮の磐座は日室岳というピラミッド型神体山で、その名は日霊の 御陵にちなみ、比沼の語に近い。

 また、その元伊勢内宮は、東の伊吹山、竹生島、遠く西の出雲大社とほぼ 等緯度線上に並ぶという特徴を持ち、特に伊吹山頂とは、かの南北ラインに関して対称の位置にあるという霊妙不可思議さとなっている。

 また、元伊勢と関連して、もう一つのポイントを紹介しておかなければな らない。南北ラインの陸上最南端串本に、奇しくも、大地の神の陽具を思わせるような潮岬半島があり、出雲の地名と大国主神を祀る出雲神社がある。むろん、 出雲大社の分派には違いないが、起源は相当古いものと推測される。

 これらの精選した特別な祭祀霊場を幾何学的に結ぶとき、驚くべくも図 1・8のような結果が得られた。




 出雲大社と出雲神社(潮岬)をそれぞれ中心にして、ほぼ地球の平均2緯 度長(約222Km )の同心円上に市島、多賀などの主要祭祀霊場が位置し、元伊勢が二つの円の共有点となっているのである。

 また、出雲大社、元伊勢、出雲神社、そして元伊勢の対隅の土佐でつくる 平行四辺形(菱形)は、8対6対5の比率(5、4、3の聖数比の構図)に近似している。むろん黄金比率(1.618・・・)が採用されようとした感のある ことも否めない。

 加えて、吉備津神社は対角線と円の交点にちょうど位置するという不思議 さである。

 もはや、これらは故意になされたものと考えざるを得ず、古代黎明期にお いて、国土経営に関する高度な政治的配慮があり得たことを思わせる。ちなみに、四章で触れる銅鐸出土圏は図1・8の構図の範囲に奇妙に重畳するのである。

 壮大な見えざる地上絵には、多少の誤差はあるとはいえ直角三角 形を主体にしたシンプルな図形群の潜在、緯度長の採用がほぼ明白。
 ならば、これらは何を物語るので あろうか。それは、常識を覆す途方も無い知識が、古代に渡来していた可能性ではなかろうか。
 


祭祀霊場を布石した方法

 では、いった いどのような方法で西日本各地に祭祀霊場を布石したのだろうか。
 書紀にいうように、倭姫が東に赴く途上で神の御出現を受けて伊勢の地が定まっ たのだろうか。ならシャーマンの卓越した能力の為せる業ゆえに成ったこととしてそれ以上何も論議することはない。だが、科学的に考えるなら、それでいいも のではなかろう。

 ただ一つ妥当なのは、古代に何らかの精巧な地図があって、それを元に国 土計画が立てられ、実地調査しつつ、地形を俯瞰照合することにより布石していくようなことがあったと考えるのだが、読者ならどう解釈されるだろうか。

 ならばその地図はどのようにして得られたのかということになろう。渡来 文化人が居たといえど、農耕民族に毛の生えたような人々に、そのようなものの製作能力があったとは到底考えられるものではない。

 ならば、既にどこかに精巧な古地図が存在していたのではないか。それ は、すでに基本的長さに緯度長を採り入れているだけに、地球が球体であることを当然識っており、経緯度の考え方をも採り入れているはずである。

 むろん、紀元3〜5世紀という古代に精巧な地図などあるわけはない。お まえ、頭がおかしいんじゃないかと言われるのが落ちだ。ところが、世界は広く、海外にはこれが有り得たのだ。

 初めて日本を統治した古代皇室の源流は、海外から入って来た民族である ことは紛れもない事実である。正倉院の御物には、朝鮮や中国どころか、古代中近東の面影が色濃く残っていることも事実。そこで仮りに、民族、文化の伝播の 有り得べき可能性の限りを尽くして、中近東の地にそのような古地図を求めてみよう。

 すると、歴史学の常識からまったく逸脱したものは少なからずあって、 オーパーツ(場違いな遺物)と呼ばれ、今なお学者の触れたがらないミステリーとなっている。

 その有名なものが、オスマン・トルコのピリ海軍提督が、時のセリーム帝 に捧げたという「ピリ・レイス地図」(1513年製)である。

 アメリカ海軍のマレリーが、同図中の大陸が国際地球観測年の地震探査で 得られた氷の下の南極大陸の地形図と似ていることを発見して、一躍世界的に有名になったものだ。当の南極大陸は1818年に初めて発見され、外形の地図化 さえ1920年のことであった。

 また、そこには精密な南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの大西洋側の 海岸線が網羅されていたが、時にコロンブスがアメリカ大陸発見の直後で、それが大陸であるとの認識すらなかった頃のことであった。

 作図者のピリ提督が同地図中に注釈するには、アレキサンダー時代(前4 世紀)の古地図や、コロンブスの手になる地図など20葉を下敷きにして作ったという。

 問題は下敷きの古地図の成立年代である。研究後継者のハブグッドは、驚 くべくも前20世紀頃に栄えた古代エジプトのシエネを基点にして、円錐図法で描かれたものと結論した。これは、アレクサンドリアの図書館に所蔵されていた ものと考えられている。

 また、オロンティウス・フィネウス地図(1531年製)は、南北両半球 が精密に描かれており、特に南極大陸は、現在の地図とのアウトラインが類似するばかりか、川やフィヨルドの有様さえもが描かれ、南方の大地とさえ表現され ていた。

 トルコのハジ・アハマッドの地図(1559年製)も、北極圏、ユーラシ ア、アフリカ、さらに南北アメリカの各大陸がほぼ完璧に描かれていた。むろんまだ各大陸を実測した者は誰もいないはずのものであった。

1559.ハジ・アハマッド

 その他、南極大陸を描いた地図は、ルネサンス期に多数描かれているという。そ れというのも、キリスト教会の抑圧時代への反動として、ギリシャ、ローマ時代を理想として、人々が埋もれた古代の文化遺産に群がった時期であったからであ る。その点、イスラム圏のトルコでは統制は緩く、いち早い知識の発露をみたのであった。



エジプト起源の驚異的な天文知識

 地動説を初めて唱えたコペルニクスは、ローマ法王に出した論文の序文 に、「私が地球が動いているという説を持つに至ったのは、古代の人々の書いたものを読んでからだ」と明確に書いている。その古代の書物とは、一般的にはギ リシャ時代の著書だとされている。確かに、プラトン(前4世紀)は、すでに地球は球であって、それが回転するので昼と夜があると言っていた。だが、果たし てギリシャが最初であったのかどうか。

 紀元前3世紀に、地球の子午線全周を最初に測定したというエラトステネ スは、実際よりも6千2百キロの過大見積りとなったが、その方法の妥当性によって史上初の功業という栄誉が与えられた。ところが、近年、様々な考古学者に よって、彼の功業は実測さえしていない偽物であり、既にあった知識情報からよく確かめもせずに借用して不正確さを生んだものと糾弾されている。(*27よ り)

 というのは、夏至の日の測定点の一つであるシエネが、この当時には北回 帰線上にはありえないこと(ありえたのはそれより二千年も前)、もう一方のアレクサンドリアとは経度で3度も誤差があるのに気付かず、単に古代エジプトで この両地点間の距離は100アトル(5000スタジアム)とされていたのを単に借用しただけらしいこと、そして古代エジプトの単位、王室キュビトをアッシ リアの大キュビトと取り違えたらしいことが挙げられている。多分に、彼がアレクサンドリア図書館長という立場上行ない得た、情報のうかつな流用に違いない というのである。

 こうして図らずも、一大文化都市アレクサンドリアに焦点が合い、古代エ ジプトを窺うこととなった。

 古代エジプトの天文学に関する知識が高度に完成していたことは、クフ王 のピラミッドとそれにまつわるギリシャの文献が物語っている。

 ナポレオンのエジプト遠征に同行したジョマールは、クフ王の墓とされた ピラミッドの数値諸元を測定し、ほぼ完璧な数値を割り出し、それ以前にギリシャ古文献の中で「底辺全周は地理角度1分の2分の1」とか「辺心距離は1スタ ジアムで、これは地理角度1度の600分の1」とあった記述と照らして、古文献の記述が正しいことを知った。前2世紀のアガタルキデス(アリストテレス学 派)の著物にも同様の記載がされている。

 これはとりも直さず、古代エジプトでは地球を球体として扱い、それを 360度に分割して扱っていたことを示す。加えて、地球の正確なサイズは分かっていた。そこに経緯度に基づく地形の把握(地図)がなかったとは、むしろ考 え難いのである。

 ジョマールはこうしたことから、ピラミッド建設者が地球の大きさをはじ めとする高度の天文、地理に関する知識をピラミッドの幾何学の中に封じて後世に残したに違いないと信じるに至ったらしい。また、ニュートンも万有引力の法 則を確立する際に地球の正確な大きさを知る必要があり、クフ王のピラミッドの度量衡を頼ろうとした。エラトステネスの測定値では自分の考えていた理論にあ わなかったので、イギリスの数学者グリーブスのピラミッドに関する内外の測定データーに頼ったのだという。

 その他、ピラミッド幾何学の・比例(黄金比率1.618・・・)につい ては、ヘロドトスが「この設計にあたっては、側面の各三角形の面積が高さを一辺とする正方形の面積に等しくなるようにしてある、とエジプトの神官から教え られた」と記載していた。またπ比例については、ある学者が計測輪を使用した結果起きた偶然であろうとしているが、エジプト文明を通じて車輪の利用のな かったことが一方では判明している矛盾ぶりという。

 ギリシャ人はエジプトから学び、幾何学知識を自分たちのものとした。エ ジプトはなぜか秘密主義に撤したために、西洋科学の先駆けとはなりえなかったのだ。

 さしずめ、問題はそうした知識が日本に来ていたかどうかであろう。



 (2)隠れていたカバラの祭祀曼陀羅

菱十字形と五芒星形の判明

 では、いったいどういった人々が祭祀霊 場の布石を実行したというのだろうかが問題となる。ところが、その手掛かりになる図形が、すでに取り上げた祭祀拠点を元にして、シンプルに描き出せたので ある。

 その図形の一つは、多賀―若狭神宮寺―伊勢内宮―出雲神社で、一辺140Km の菱形である。(図1・9)これは明日香を中心とした南北2緯度長、東西171Km 強の菱十字形でもある。




 このとき作られる直角三角形には、黄金比率(〓1.618・・・)が採 用されているとほぼ言い切れそうだ。(85.5:111:140=1:1.298:1.637)ならばこれらは、ピラミッドの側面幾何学を暗示することに なり、いよいよエジプトらしさが漂ってくる。

 それはすでにみた図1・6、図1・8についてもかろうじて言えるのであ るが、するとよくみてみよう。ほぼ相似であるところの図1・6、図1・9、図1・8の菱形のサイズは、ほぼ黄金比率で等倍されていることに気付かれるはず だ。(大対角線比で、図1・6:図1・9:図1・8〓1:1.609:1.609X1.613 )つまり、掲出の図形群はすべて相互に関連を持っていると言い切れそうなのである。

 さて、もう一つの図形は、元伊勢内宮―多賀―熊野本宮―伊勢内宮―伊吹 山のそれぞれが111Km (1緯度長)、元伊勢内宮―伊吹山だけが114Km という正近似五角形の図形である。(図1・10)




 これは既に、多賀―伊吹山を結んだ例があるように、各点を結んで五芒星 形にもなり得るが、このとき得られる内五角形の北頂には、奇しくも平安京、底辺中央には明日香、そして心央には平城京が位置してしまう。
 つまり、古代大都市は幾何学的形式を満たすように設営され、五大祭祀拠点で結 界、守護されるごとくになっているのである。

注記※ この五芒星図形に関し、筆者は無断転載の例を二例知っています。うち一例は図 形に拙著からの原典明記がされており許容できるものでしたが、もう一例については、知らなかったとのことでした。学研ムーとのつながりの ある人物なので奇妙に思いましたが釈明をいただきました。経緯はここに。https://bit.ly/3iRWNyR
この件で問い合わせくださり履歴を残してくださったMM3210氏にはほんとうに感謝申し上げ ます
。 ⇒ http://angouyamanoue.sakura.ne.jp/111210.htm

 黄金比率という観点からすれば、これほど自明なものはない。正五角形の 一辺と、その中で作る五芒星形の一芒の長さの比は、幾何学法則として、1:1.618・・・となる。
 黄金比率は、それを2乗すれば2.618・・・となり、1を黄金比率で割れば 0.618・・・となるという、数理的不可思議性により神聖視されたものというが、本来は自然界の摂理の持つ安定性の中に潜在している比率とされる。

 アンモナイトが太古に数億年の長きに渡って種を維持し続けられたのも、 その比率で自らの体を渦に巻いているからだと考えられている。植物に五花弁の花を持つものが多いのもその安定性ゆえであろうという。観る者に美しく安定し てみえる五芒星形の魅力は、黄金比率という精髄を内に秘めていたからであり、それを知っていた古代人は、あえてシンボルとして抽出し、神聖視し、様々な護 符などに用いていたのかも知れない。

 さて、図形は九 州のものを除いて合理的に所在位置が重畳しているが、特に菱十字形と五芒星形について、海外の祭祀にこうしたシンボルを重畳的に使うものがないかどうかを 調べるとき、重大な符合の見出せるケースがあったのである。

 そのシンボルは、ヘブライの神秘思 想、カバラの祭祀において、追儺の儀式の一連の手順の中で使われていた。

 カバラはオリエントの知識を集成した思想体系である。伝統的に口伝に頼った秘 教であるため、一を以て千を語ることはできないのであるが、現在の西洋魔法にその内容を垣間見ることができるとされる。

 それ(*11)によれば、追儺の儀式は、祭司者自身を浄化するための 「カバラの十字」と、周囲の霊的影響から結界するための「小さな五芒星」の儀式から成るという。
 もちろん現代の西洋魔法の処方と今回の図形が的確にマッチするものではない。 カバラの十字は縦横の長さが等しいとされ、五芒星は星頂が上でなくては邪悪なものとされる向きもある。しかし伝承の変化は有ろうかと考え、ここではシンボ ルとして満足していることが決め手になろうかと考えた。

 さて、カバラの起源は神秘に包まれ明確ではないが、エジプトでの歴史を 辿ったユダヤの民により伝播された知識体系である以上、エジプト幾何学のキャリアーとして十分考えられることではないだろうか。ここで少し、カバラについ て詳しくしておこう。


カバラとは何か

 カバラは、学問的立場からすれば、ユダヤの原典である「モーゼの五書 (旧約聖書の初めの五書、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)」の論考、解釈から発展してきたとされ、主たるアウトプットに「タルムード」 (2世紀〜)や「ゾハル」(13世紀)や「創造の書」(2〜6世紀)がある。

 旧約としての書物の成立年代が紀元前千五百年頃とされているので、カバ ラも内容的には紀元前千年を下らないと考えられてはいても、書物としての体裁が整った段階でカバラが生まれたとするのが学問的立場の考え方であるために、 その年代は相当後世に押しやられている。

 ところが、非正統的な西洋魔法などの立場からすれば、カバラはユダヤの 神秘思想ではあるが、エジプトとカルデア(新バビロニア)の知識の流れを汲むものであることは、西洋魔法の権威W・B・バトラーなどによって説明されてい る。

 カバラは元来、「口から耳へ」とか「伝統」の意味を持つように秘密の教 えであり、厳重な組織のもとに口伝されるという伝統を持ち、文書化されなかった非常に長い経過があるという。その知識内容の幅や規模については、ヘルメス 学の書などに一部がうかがえる以外は知り得ないとされている。

 それによれば、カバラには、自然学(自然界の秘密)、占星学(宇宙の秘 密)、類比学(物理学)、魔法、観照の五学があり、その中には重要な秘儀に関する事項、思考の贅を尽くした学問、古今の知識探索の結果にいたる歴史や自然 科学の全体が網羅されていたというのである。

 エジプトは優れた天文、幾何学知識をそこに合流させたであろうし、カル デアはシュメール、アッカド、アッシリアなどの過去にメソポタミアに居を定めた文明の叡知を学び、淘汰していたであろう。この立場からすれば、カバラの発 祥ははるかに古く、そのゆえに古代日本に伝えられたことは、十分に考えられるのである。

 一つ、秘教に関する重要な鉄則がある。文字などによってその内容が一般 に公開されるようになったときは、その秘教自体が衰退期、末期にさしかかったことを意味するというものだ。かつて厳重な戒律をもってしていた秘教を守る組 織が、何らかの理由でその統率機能を果たせなくなったとき、方針の多様化にともなう内部崩壊や対立が起こり、内部告発が始まるのはどのような組織において も同じだと言える。

 カバラが文書化されるようになったのは紀元後になってからである。その 最初であるものに、アレキサンドリアのフィロン(前20〜後40頃)がいる。彼は「モーゼの五書」に関して質疑の形で膨大な著作を残した。聖書の章句を寓 意として解釈し、ゲマトリアなどカバラの体系に強い影響を与えたとされている。学問としてはそれで良いとしても、彼が当時から今にいたるまで異端とされて いるのは、公開してはならない秘密を文書化する先駆けとなったことによるのかも知れない。

 後世のタルムードやゾハルも、キリスト教に対抗するために、ユダヤ教の 独自色の強いものとなって現われざるを得ないものだった。秘教の輪をユダヤ民族全体へと広げ、民族の独自の知識文化として定着させていったものと解せる。 だが、それは今誰にでも読める形になっており、もはや秘教とは呼べなくなっている。

1947年に偶然発見された「死海文書」は、秘教の書であ る。
 フィロンとほぼ同時代、紀元前1世紀頃の死海西岸の洞窟で瞑想生活していたク ムラン宗団(エルサレムの第2神殿が破壊された後にこの地方にやってきたわずかな生存者)の「イザヤ書」に関する手稿で、カバラ思想の原型ともいえる神的 霊知に関する発達した秘儀体系をもっており、ネオ・ピタゴラス学派の神秘思想の影響も受けているという。

 彼等のしていたのは、瞑想生活を通じて神を知ろうとするもので、「メル カバ」(天の車)の幻影を見ることが一つの大きな達成とされたらしい。
 メルカバの幻影とは、エゼキエル書や黙示録の初めを飾る神の属性の幻影であ る。この方法は秘教であり、師伝の口頭の形でのみ伝えられたが、カバラの本来はこうしたものであった。
 旧約聖書を彩るユダヤの預言者も、いきなり天啓が与えられたのではなく、長い 地道な修験的生活によってその能力を獲得したと考えられている。

 古代日本には、その伝統的流れがユダヤ系の人々を文化の伝播者として 入ってきており、特に知識階層は為政者となり、秘教を世にも巧妙なトリックを使って国土計画の基盤に据えたと考えられるのだが。
 また一方、衰退は、平城京完成と本格稼働という究極計画の成就にあわせて、知 識が古事記として文書化されたことが伝統の終結のステイタスになったと筆者は推理して、今後の日本古代史を展開することとした。

 余談ながら、その後の西洋のカバラの歴史は次のように展開したと推測す る。
 紀元前2世紀以降、ユダヤ教徒には迫害の歴史となる。その後のユダヤ教の根幹 をなすタルムードがモーゼの五書の註解書としてパリサイ派の学者たちによって作られたが、これは迫害に対する民族の結束を説いた知識武装の書であった。
 バビロニアとパレスチナには学校が置かれて教育に供され、基礎となる律法の論 考、旧約原典との照合、現実の事件例における適用、新たな原則設立などの研究が行なわれ、学者にラビの称号が与えられたりした。

 これによって、ユダヤ教には決まった方向が設定され、タルムードをカバ ラの中核と捉えるなら、カバラの流れも顕在的なものと潜在的(秘教的)なものに分かれていくのである。

 潜在的なものは、さらに敬虔な瞑想生活を通じて神を知ろうとする瞑想的 カバラと、錬金術や占星術などのまがまがしいとみられがちな通俗的カバラに分けられる。その後者は、神秘思想としてユダヤ世界に潜在しただけでなく、非ユ ダヤにとっても、豊かな知識面で興味ある対象に違いなかった。様々な分野の者の参考に供して、多大な影響が後世にもたらされた可能性がある。

 また、カバラは世界の政治経済に関わる異形の秘教組織(フリーメーソン など)の存立の土台となっている。彼らは、組織とカバラの関係を説いた興味深い不思議な起源神話を持っている。(三章)それはとりもなおさず、古今、カバ ラが世の変革の根底に潜在した指導原理であり、世の歴史の謎を解く鍵だからであろう。

浮かび上がる畿内の生命の木の図式

 さて、話を戻そう。古代日本には、カバラの魔法の概念が、世にも壮大な 規模で取り入れられていたらしい。魔法といえば、オカルトではないかと訝られるかも知れない。確かに、何事も了解できた現代科学と対比すればその程度の話 になろう。だが、古代にはオカルト、イコール最新科学だったことを了解願いたい。

 魔法において問題なのは、追儺の儀式も重要ではあるが、本題となる祭儀 の前準備の意義を持つものにすぎないということである。つまり、もっと重要なものがこの後に続くのである。

 本題の祭儀とは「中央の柱の回流」の典礼といい、手短か に要約すると「宇宙の神聖な霊的諸力を地上次元に導くために、ある特定のマンダラを公式として繰り返し用い、この力を目的となる統一体の上に結集して、所 期の願望を達成しようとする祭儀」ということになろうか。

 通常は修業者個人の自己変革を目標とし、究極的には神のステージにまで 精神を変容せしめる方法とされている。ただ、その過程において、様々な付帯した超能力が現われるとされるため、今に言うオカルトの起源として異端視されて いるが、本来は古代の科学技術であった。
 前段階の追儺の儀式は、修業者の精神環境を浄化し、誤った方向に向かわないよ うにする目的を持たされていたのである。

 そこで、ある特定のマンダラとは「生命の木」(セフィロト)と して知られるものである。十の聖なるセフィラとそれを結ぶ三十二の径の図式で与えられ、宇宙と人間の魂を包含する原理図式として様々に応用されるものであ るという。

 自己変革の修法を与えるだけでなく、カバラの役割の秘密が世界の進化と 変革に寄与する世界錬金術を目指すとも言われることから、もしかすると古代に、日本国土を一大キャンバスにして密かに原理を適用し機能させていた可能性も 考えられるわけである。

 そこで、生命の木の図式と畿内のポイントの照応関係の有無を検討してみ た(図1・11)。




 古来の地名は、謂れのはっきりしているものはともかくも、何らかの機能 が基となって名付けられたものが多いと考える。たとえば先程の「むこの山」はそうである。後世の都人が「向こうの山はむこの山」と言った云々の淋しい限り の起源話を鵜呑みにすることなく、真相を捉まえねばならない。

 まず、最下位置のセフィラ、マルクトはセフィロト上の意味付けで「大地の魂」を表わすとされる。対応する場所は串本町の潮岬 であるが、既に紹介したように突き出した半島には、奇しくも大地の神霊、大国主命を祀る出雲神社が鎮まっている。

 また、串本の「クシ」は霊妙の意味で、「モト」が古語では生木の根を意 味し、「シホ」が「締・穂」で拡散する穂を束ねる意味を持つから、全体として生命の木の根元の位置の役割を十二分に表わし得ている地名と言える。

 また、古来紀伊半島の南部を「木の国」と言ったが、生命の木にちなむこ とは紛れもない。

 次に、コクマー「神 の息吹」を意味するとされるが、そこには全くの言葉どおりの伊吹山が鎮座している。神の荒魂の息吹、鬼門の方角は、こうした初源的 意味あいが歪曲されたものと推測される。

 また、セフィラではないが、生命の木の上方のアイン・ソフ(エン・ソフ)は、唯一者であり永遠なる無限者、神を表わす言葉である。ところが、この位置にはちょう ど言葉どおりの常神岬、もしくは御神島が洋を隔てて(つまり空間を置いて)存在している。地形の読みが、実に洒落ている。

 以上は文字どおりの対応だったが、次は意味上の対応である。

 まず、ゲブラー「力」の 座であるが、市島一帯が強力な呪術力を持った大物主神を祀る三輪族の後裔、鴨氏の所領であることに窺える。この氏族は、三輪山をはじめ秀麗な形をした神体 山を崇拝したが、春日、市島地方にはピラミッド型神体山が数多くある。

 「名誉」を表わすホドには、数々の国生み神生みと黄泉帰りの功績のあるイザナギ神の御陵があてられている。

 ビナーとネツァクは元伊勢、伊勢として天照大神の祭祀霊場となっているが、その遷座に神話の展開上の意味が見出せそうだ。「知性」の座 の天照大神は天降前の居並ぶ知恵の天神たちの総帥として、次に天降に伴い「栄光」ティファレト)の座の大和笠縫から、さらに「勝利」の座の伊勢へと神話の形式が完成されているとみられる。

 イエソド「基 礎」を表わすとされるが、その意味は次のようなことだろうか。

 熊野本宮を中心として、個人の精神性を高めるための修験道が栄えた。修 験者は、ユダヤ教徒の装束と非常に似ていて、その前身はカバラ行者であり、生命の木の業を保全し実践する者達であったと考えられる(後で詳述)。つまり、 いささかこじつけがましいが、この地はカバラの秘儀の基礎を培った場所であったと解されるのである。

 特筆すべきはケテルで ある。このセフィラは「神の理念」を表わすとされ、実現を願う者の立場からすれば究極の目標あるいは理想であることになろう。そこに若狭と 遠敷(おにゅう)の地名の残ることに、重要な意味がある。

 「わかさ」はその言葉どおり、若々しさの意味であり、「おにゅう(おに ふ〓生・新・降)」は生命力の更新とか新生を意味していて、共に古代人のよみがえり観を反映した言葉となっているのだ。つまり、若々しさの更新、ひいては 不老長生が理想として掲げられているとみてよい。


畿内の生命の木マンダラの効用

 以上のセフィラの中で、追儺の儀式の「カバラの十字」で は、ケテルとマルクトそして左右に対照的に位置する2球が名指しされ、星頂として利用される。 つまり、少なくとも明日香が 追儺の中心を担ったことが考えられるのだ。

 一方、本題の「中央柱の回流」の儀式は、意識的修法であ るが、まずアイン・ソフに発する神の力が光体として心に視覚化され、ケテルに導かれ、ついで ティファレト、さらにイエソド、マルクトと順次下位に送られる。このときケテルの持つ理念の意義が反映され、この場合には先程の若々しさをもたらす生命賦 活の神霊力が送られることが想定されているのだ。

 その経路の中で、ティファレト「栄光」の座であり、神と人の出会いの場であるとされる。
 つまり、神の諸力がもたらされ、精錬を受ける場所となるわけであるが、ここに 平城京などの大都市群が位置するということは、とりもなおさずこの地が神人共栄の歴史の舞台となるべく設定されたことを物語り、活気に満ちあふれた永続性 のある都市として栄えることが予定されたに違いないのである。(その都市の名は後に詳しくするが、すべてユダヤの平安の都エルサレムを言い換えたものと なっている)
 この巨大スケールの発想が、古代日本人の祈願の構図を支えていたらしいのだ。

 ところで、この修法は個人が自らを生命の木の図式に見立てて、エネル ギーの回流の意識的修業を脊柱に沿って忍耐強く周期的に繰り返した結果、神の諸力の実現をみるに至るとされる。

 同様の周期的繰り返しが行なわれていたと考えられる証拠が、少なくとも 若狭と奈良の間で、今も毎年一回の割合で繰り返される若狭神宮寺「お水送り」と、それに続く奈良東大寺「お 水取り」の儀式である。

 これは、若狭遠敷の鵜の瀬から聖水を送り、時間差を以て奈良でそれを受 けるというもので、両地点は地下水道で繋がっているという伝説がある。
 これには古代イランのカナート(運河)が起源だとする説が出されているが、わ ずかな遺構なりとも発見されたという報告は未だない。

 つまり、無形の心象上の道であるからであり、カバラの概念が仏教と結び ついた変化形と解釈したほうが理にかなっているのである。

 この時の二月堂の若狭井の水が万病に効く不老の良薬と伝えられるのも、 目標理念に掲げられた若々しさをもたらす無形の生命力が聖水に象徴化されたからに他ならない。

 不老の水の起源についても、仏教には謂れがなく、カバラの源流地である バビロニアの神話の、死んだ女神を甦らせるべく地下界を使者の手で運ばれたという命の水へと遡及されるのである。(二章で詳述)

 また、この地下水道は「蟻道」とも呼ばれ、その起点である若狭神宮寺に は蟻道の神という道祖神が祭られる。

 蟻道とは、はじめの蟻の一匹が一度食物を得て通った道を、やがて無数の 蟻が行き交うことから付けられた名だが、これは明らかにルート上で繰り返される霊的エネルギーの意識的移動を暗示するものである。カバラでは、この蟻のご とき反復が、目的となる統一体の幽体構造を変革していくとされるのである。

 また、カバラからすれば、神により栄える世界は、メシアの登場により実 現されることとされている。西洋のメシアであるキリストは、当時の磔刑の伝統として一本の杭に懸けられたという説があるが、もしそうなら十字架に懸けられ たという伝承となって顕れた理由は、さし絵左(*13より)の象徴図から容易に見て取れるようにカバラの要求によることが考えられる。

 

 日本の場合には、メシアが仏教の形を採って表れると想定されたためか、 東大寺 の盧舎那仏が世間に向けた顔とされたもようである。

 そこに向けてのお水送りは、まさに大仏開眼、仏のメシアを新生させよう とする行為だったに違いない。

 そして、秘教であるカバラゆえの隠れた顔を、盧舎那仏の背 後、若狭井横の二月 堂の秘仏十一面観音(住職も見たことのないという)に置いたかと思われる。神の世界をも傘下に置こうかという仏の教えからするとき、十一面とは何か暗示的 ではあるまいか。

 序でながら、キリストの一般に祝われる生誕日も事実ではなく、一年の日 照時間の最短日からの再生を意味することにちなんでいる。つまり、死と再生を象徴する時点に意義を見出すカバラの要求によるものであり、これは「よみがえ り」観念を反映した「おにふ」の理念として、十字形とともに古代日本に焼き付けられているのである。

 さて、カバラの元あった儀式には、中央の径だけでなく、周囲の球にも力 を回流するものがある。生命の木の下位の球は上位の球の影響を受けざるを得ないとされるので、古代都市(ティファレト)では、荒魂(コクマー)のあまりに 強すぎる入射を和魂の霊所における鬼門封じで加減しつつ、天の知恵と豊穣の理想(ビナー)の入射を求めたと言えるかも知れない。

 このため本来の儀式は、たとえ秘密裏に行なわれていたとしても、畿内全 域に渡って時間差で各球を励起していくという壮大なものであったのではないかと推測される。

 元伊勢外宮には、毎年の節分の夜に青白い炎塊が立ち昇ったという伝説を 持つ神木「龍燈の杉」がある。節分の夜とは、これまた一年が回帰する最後の時であり、まさに立春日すなわち新生、甦りを象徴する日の前夜である。

 古い過去、一年毎の節分の夜に欠かさず新生と豊穣の神霊力の送出儀礼が なされたのであろうか。炎塊はおそらく、立春を迎えようとする都を目指して飛んで行ったものだろう。その行事の役割を担っていたのが、後に異端のまれ人に 落としめられた「鬼」であった事情は、後に(四章)詳しくしたい。

 中国の道教やインドのヨーガ、密教にもカバラの行法と類似したものがあ り、それぞれ非常に古くから仙人や解脱に至るための修法となっている。道教の秘教仙道には、気功法を発展させて人体の中心線に沿って「気」を巡らせる小周 天という技法がある。ヨーガには、脊柱に沿った霊道スシュムナー管にクンダリーニを通す修法がある。真言密教やチベット密教もこの種のヨーガを伝えてい る。

 こうしたことをみても、神の高処に近づこうとする概念や技術は、古代に おいてはけっこう普遍的な知識であり、そのルーツは一つに結びつくかも知れない。
 その根源的な知識がカバラと呼ばれていたかどうかは分からないが、古代世界に おいて、秘教という潜伏した流れが大域的に存在したらしいことが窺えるのである。

 だが、国のレベルにまで拡大利用した祭祀形態を創ったのは、おそらく古 代日本だけであっただろう。それは、古代都市に、あるいは畿内の結界の中に、あるいはさらに幾何学図形の適用されるすべての領域に住まう古代人の心に、神 仙の雰囲気を与え続けたに違いない。

 神仙に住まう自覚はあらゆる事物に神の造形を悟らせ、形を超えたものを 見立てる力と自然なおおらかさを育み、後世に読み親しまれる万葉人の心の素地を培ったに違いないのである。


 

古代地図「ヤタノカラス」

 もう一度球体地球の話に戻して言うと、カバラのゾハル(成立13世紀) には「人間が住んでいる地球は、円のように回転している。住民のある者が下に居るとき、他の者は上に居る。ある地域が夜のとき、他の地域は昼である」と書 かれている。

 古代エジプトの民衆教育用文書には、太陽の女神の「ごらんなさい、男神 である地球は、私の前では丸い鞠のようなものです」と書かれていた。科学に縁の無い民衆ですら、こういう教えは受けていた。いわんや、秘密を握る立場の神 官をやである。

 今後の推理で筆者は、こうしたオリエントの神官階層の流れが、日本の覇 者となっていったと考えるものであるが、日本神話においてすら、自転する地球は明確に「おの・ころ(自・転)島」と表現されている。

 古代日本に国土をキャンバスにして希有壮大な幾何学模様が描かれていた ことをみても、エジプト仕込みの地図と知識が渡ってきていた可能性を示唆していよう。それは、オリエントの知識の集成、カバラによって伝えられたことはも はや明白ではなかろうか。

 では、そのような大がかりな働きをした地図そのものについて、当然のこ とながら何らかの伝承があるべきであろう。それが秘伝のものなら、それなりの表現で。

 それが実は、古事記中つ巻の神武天皇東征の段に寓意の形で出ているので ある。

 高木の神はヤタノカラスに指図して、神武天皇の道案内をさせたというの だが、このヤタノカラス(ヤタ〓多面、烏〓唐図)こそが秘伝の地図そのものと解釈されるのだ。

 ヤタの「ヤ」は多数を意味し、「タ」は「田」すなわち整理し測量された 土地を意味し、カラは韓とも空とも書かれるように海外とか宇宙を意味する。

 スはズ(図の音読であるが、古事記編纂の頃には漢語の暗号組込みもなさ れた)の清音化であるとともに、「統」(訓読)で地勢を掌握する意味が込められている。

 総じて海外に発祥する地勢掌握のための秘伝地図という意味が掛け加えら れているのである。加えて、カラスとはこれまた高空から鳥瞰した感のある地図の視点をも暗示している。

 カラスには尾がつきものだ。図形は愛知県を東端として終わるが、尾を示 す場所だから尾張と名付けられた感があり、また「終はり」の掛詞であるから図形はそれ以上東には結びつかないと予想される。その実、幾何学原理をさらに東 に展延できそうな祭祀拠点を、筆者は未だ見出していない。

 日本で、そうした地図は未だ発見されていないし、現存の可能性も乏しい と言わねばなるまいが、皇室には古伝の未公開の文物があると言われるし、後に重要な関わりを述べることになる物部氏の末孫の家系には門外不出の秘伝の地図 が伝えられるとあって、興味深いものがある。




   
 (3)日本に来たユダヤの民

 失われた十支族を求めて

 カバラはユダヤの神秘思想と言われる。伝承では、エジプトで得た知識を 持ってモーゼが民族を率いて出て、ヘブライ王国の基を築いたとされる。

 ヘブライはソロモン王の後、分裂して北のイスラエル王国と南のユダ王国 となり、イスラエルは先にアッシリアに滅ぼされ、民族は「より東の未到の地に行こう」の言葉を残して行方知れずとなり、ユダはしばらく後に 新バビロニア(カルデア)に滅ぼされ、民族の知識階層がバビロンに連行された。

 そこで彼らは、半自由人としての生活を送りながら民族の団結を呼び起こ すユダヤ教思想を確立した。そうした試練と民族の存亡をかけるストレスの中で、他を凌ぐ知的優秀さが求められ、洗練されゆく知識の流れの中で、カバラが熟 成したとみられている。

 カルデアはやがてペルシァに滅ぼされ、バビロンの拘禁を解かれたユダヤ 人たちは喜んで故地に戻ったとするのが旧約聖書の論理だが、後世の研究では幽囚の時の彼らの生活はかなり豊かであったため、パレスチナの瓦礫の故地には魅 力がなく、定着したかどうかは疑わしいというのが定評を越えた説として見直されている。

 では、どこへ行ったのか。おりしも預言者がヤーヴェに立ち返れと唱え、 ユダヤ民族の一本化を実現する理想を掲げた時代であった。ヘブライの再建のためにイスラエルの失われた十支族の行方を追ってシルクロードを東遷し、中国、 朝鮮を経て日本にまでやってきた者もいたと考えられるのである。

 日猶同源を証拠だてる論議とともに、日本に残る固有名詞や習俗から、ユ ダヤ民族の流入を証明しようという研究は、かなり以前からあった。

 最も古いものとしては、明治8年にイギリス人のN・マクレオドが著書 「日本古代史の縮図」において、日本人の生活、習慣、祭りについて、旧約聖書の古代イスラエルとの類似に言及したものがある。(*19)

 戦前には、アイデルバーグが、神道上の習慣と旧約聖書の記述を照合比較 するとともに、古来の日本語の固有名詞が古代ヘブライ語で解釈できることを述べている。

 たとえば天皇の呼称スメラミコトは、古代ヘブライ語で解釈でき、スメラ が発音上のサマリア(イスラエル王国の首都)で、ミコトが皇帝の意味で、あわせるとサマリアの皇帝を表わすのだという。

 また、初代神武天皇の称号カムヤマトイワレビコは、古代ヘブライ語やア ラム語で解釈され、カム(創設する)ヤマト(神の民)イワレ(ヘブライ)ビコ(崇高なる)で、「神のヘブライの民の崇高な創設者」の意味になるという。

 三種の神器の一つ、「八坂の勾玉」も、ヤサカが神への信仰を意味し、マ ガタマがヘブライ文字のヨッド()を模したもので、イスラエルの神を表わすという。

 また、ミカドとは十支族のうちのガド族の出自を示しているのだともい う。

 こうしたことを事実とするなら、一国の王の名前に、以上のような意味付 けを与えることの宣伝力は、相当なものと考えざるをえない。執拗に古代人一般に対して、「ユダヤの統率者ここに在り」と喧伝しているのも同じことになる。

 理解できぬ者は別としても、古代ヘブライ語に多少なりとも通じた内外の ユダヤの民には、強いインパクトを与え続けたのではあるまいか。

 もしかすると、古代皇室には既にエゼキエル思想が反映しており、イスラ エルの十支族の末裔が早くから日本に浸透していたのを察知了解して、預言に従って離散したヘブライの民を結集すべく図った一つの方策だったかも知れない。

「人の子よ、汝一片の木を取り
その上にユダおよびそのともなるイスラエルの子孫と書き、
また一片の木を取りその上にヨセフおよびそのともなる
イスラエルの全家と書くべし。
・・しかして汝これを供に合わせて一本の木となせ。
・・我イスラエルの子孫をその往けるところの国々より出し、
四方よりかれを集めてその地に導き、
その地において汝らを一つの民となして
イスラエルの山々に居らしめん。
・・再び二つの国に分かれざるべし。
彼等また・・身を汚すことあらじ。・・」

(エゼキエル書三十七章十六〜 二十三)


 信仰が人々を支配し、明日の分からぬ過去の時代においては、どれほど強 い影響を持っていたか知れはしない。かつて約束を違えたことのないとされる神が、そうした約束を与えたのであるから、なおのことである。

 神功皇后は、新羅征伐を繰り返したが、朝鮮半島に定着したユダヤの民を 浮遊させ、移動を促す陽動作戦ともとれる。

 皇后が百済から献上された七支刀は、神聖数「7」に基づくユダヤの象徴 的燭台メノラを模したものであり、内外に「ユダヤ求む」を印象付けるには著しく、応神朝にはユダヤ系として知られた秦氏の祖、弓月君が大量帰化した事実も 一連の出来事として説明がつく。

 現在のイスラエルのユダヤ人入植政策の古代版が、まさに古代日本におい て行なわれていたかも知れないのだ。


 

苛酷な新天地でのエルサレムの創造

 そうすると、日本の古代の為政者は、国土計画において何を行なおうとし たのか。それは、新天地でのエルサレムの創造ではなかっただろうか。

 畿内を中心として究極的な図形を配置していることをみると、この地に統 治の中心を持ってこようとしたことは明らかである。そのために、日本の黎明期に起こされた事件が、神武天皇の東征である。この謎にまつわる考察は後程行な うことにするが、土地の選定が質よりも形式重視で行なわれたことを、次の事実から知っていただこう。

 歴史学者には割合知られていない盲点がある。それは、地質学的なレベル の問題で、奈良盆地の広域が古代黎明期においては、まさに天照大神の所望された「豊芦原の瑞穂の国」に表現されるように、水滴り豊かな葦生い茂る湿地で あったことである。湖底だったとも考えられている。(*22)

 それによれば、わざわざ盆地の水を排出するのに、生駒山系を最短距離で 打ち抜く、大和川の疏水工事が行なわれているとさえいい、それでも明治の初頭まで深い泥田として湿地のなごりが残っていたくらいで、水耕にようやく利用で きても、疫病の発生しやすさなどの点から、決して住環境に適した土地ではなかったはずだというのだ。確かに古代の奈良では疫病が頻発したが、この理由と考 えられなくない。

 それを今や、「奈良盆地は自然の要害」説が押し切った形になっている。 確かに、東西と南を高い山に仕切られ、交通の難所にある秘境。だが、もし山岳を敵に奪い取られたなら、ふもとの様子は筒抜けであり、これほど簡単に破られ る都もなかろう。

 また、国際使節を迎えるにあたっても、決して有利な位置に無かったため に実用面の要求から難波に幾度も遷都され、副都ともされた。

 またそれ以前にも、東征途上の西日本には、中国山地を控えた温暖な肥沃 地帯が広がり、いくらでも国造りのできる土地があるはずであった。

 つまり、本質的に信奉する祭祀の要求する形式に徹底的に従ったとしか考 えられないのである。それは過去の世界のどこでも重大な動機として有り得たことだ。

 また、故地を偲ばせる地形を醸していることも重要かも知れない。既に琵 琶湖と淡路島が相似形をしており、それが古代人の神仙観に幾何学的発想を与えていたことを述べた。

 パレスチナにあるガリラヤ湖も、やや小さい(縦最大21キロ、横最大 12キロ)とはいえ、琵琶湖と形状が似ている。湖には上ヨルダン川が流れ込み、下ヨルダン川として出ていくが、これらの川は奇しくも南北の真直ぐなライン を形成する。
 その相似図において、この川の入射位置と角度は、淡路島から(京都御所を経 て)琵琶湖に入射し伊吹山に至る鬼門のルートに符合するのである。


 また、南北に流れるヨルダン川とはあまりにも奇遇。これこそカナートな らぬ、遠敷ー奈良の地下水道の発想の原型かも知れないのだ。

 そこで、次のように推測するのである。

 早くから思想上の形式的、地形的に条件の整った畿内の土地に目が向けら れた。
 新民族は征服が成功すると、まずカバラのシンボルで広大な結界を作り、大ス ケールの祭祀システムを稼働させつつ、この範囲にある土地の住環境造りを進めていった。

 この時の奈良盆地の水は厄介であり、大和川の疏水工事がこの時に行なわ れた。水位を下げる一方、土砂の搬入工事も行なわれた。唐古・鍵遺跡は、こうして造られた一つのモデル地区であり、拡大拠点であったのではないだろうか。


 第二のエルサレムの候補地としては、もとより五芒星の作る内五角形の心 央にくる奈良の地こそ究極のものであった。しかし、そこは奈良盆地で最も低地であり、まず手狭ながらも湿地帯の南高台、明日香の地を最初の都市造営地とし なければならなかった。

 生駒山系に立って眺めた時、大和の湖面の南方に葦の生い茂る湿地に連な る土地があり、それゆえ大和言葉で「彼・州・処」とか「葦・処」と呼び、水鳥がしきりと飛び立っていたので、その印象から漢語の「飛鳥」を充てたものであ ろう。

 それがまた、朝鮮語の発音上の「安宿」と捉えられたが、偶然ではなく巧 妙な国際性を意識した掛詞として考案されたものだからである。

 古代黎明期には、大和言葉が確立しつつも、各種の渡来人で構成される国 家であったから、関係各方面に配慮した固有名詞が生まれたと考えられる。

 エルサレムとは「平安の地」を意味する。初期の明日香は朝鮮語の「安 宿」、すなわち平安に住み得る土地の意味と朝鮮を経由してきたユダヤ人には了解され、日本語に万民が慣れた後世には「平らかな」奈良となり、漢語の浸透を みた平安京ではその言葉通りに、いずれもエルサレムを大勢的な汎用語で言い換えた宮都の呼称となっているのである。

 また、宮都の形状をみると、東西南北に面を仕切った街の外観は、エゼキ エル書の神の示したエルサレムの街さながらである。特に藤原京と平安京の内裏は、ヘブライの十二支族それぞれの出入りする門が、四面に名前こそ違えど設定 されているかの感がある。中国式都城の様式を真似たり、道教思想のみが反映しているのではない。カバラは、顕在的な宗教思想や構築物を隠れ蓑にして息づい ているのである。

 そして、人々にこう語りかける。「知る人ぞ知れ」と。古代において、そ の「知る人」とは、ユダヤ系の住民であったのだ。都がエルサレムにちなむ。それは彼らに対して強烈なインパクトになったはずである。

 ならば、都人はユダヤ人だったのか。それがそうともならなかったところ が、歴史事実の奇妙さなのではないだろうか。

注記※  ガリラヤ湖はもとはキネレト湖とい い、その意味は"竪琴"。琵琶湖と通ずるものがあろう。古代 人の楽器への見立て方の共通性には、同一民族の痕跡を見る思いがしないだろうか。
また、死海写本の出土したクムラン洞窟は、この 地理的相似像を使って畿内に相似位置を求めるとき、神戸市東灘区から芦屋にかけての山岳部となる。
ここではカタカムナなる謎の文明の古代文書が出土しており、そ の文字の基礎を成すのは"十文字"であるが、上空から見れば十文字に見える十文字山という山がそのシンボルらしい。カタカムナ文献の出たという金鳥山はそ の近くにある。
この六甲山系は、古来、天狗(先修験者)が洞窟 を掘って修行の場としていたところである。
芦屋道満がその昔、隠したというカタカムナ文献。実はその原典がさらにあって、公的神話作りの過程において、古事記やその他の 神話にどれほどずつか採録されていったのではないかと筆者はみている。カタカムナばかりか、古事記も相当な科学書なのである。
日本(ニホン)とは第二の聖書を意味するという。さあ、その隠された場所なのかどうか。


エゼキエルの影響下の遺物、習俗

 ユダヤ人への喧伝策、エルサレムの建設とくるなら、当然民族の一本化を 前提にした習俗も執り行われてこようものである。

 エゼキエルは、その時の在り方をエゼキエル書第四十章以降に、神に伴わ れ異象のうちに来たるべきエルサレムの光景を見たこととして申し送っている。(聖書を併読されるよう)

 ヤーヴェは燔祭、罪祭、愆祭を人々に求めている。鬼の俎と鬼の雪隠は、 そのための家畜を屠る台と容器であろう。また、酒船石は聖所を清めるための家畜の血を採取する台であろう。犠牲の牡牛を屠るのに適した大きさであり、主に 頚からの流血を採る溝がつけられているとみられる。

 神社の柱や鳥居が朱塗となったのは、正月の元日に牡牛の血で清める指示 に基づくものだろう(四十五章十八〜十九)。

 神社の境内地や宮都の内裏といった聖所にあって神職に在るものは、毛衣 を着ず、頭には麻の冠をし、麻の衣、麻の袴を着用した(四十四章十六〜十九)。後に絹が使われたのは、秦氏の主張が通ったものだろう。

 年一回、新嘗祭のときには、祭司の首長である天皇が、その年採れた新穀 を食味した(四十四章三十)。

 おりしも仏教全盛期に、桓武天皇は「上帝を祭り、燔祭を捧げた」と書紀 に記される。上帝は道教の最高神のことであるが、燔祭の意義からヤーヴェが暗示されている(四十六章二)。

 現在でも、各神社では「お一日参り」が行なわれるが、これは旧暦の新月 にヤーヴェを詣でる指示に因む(四十六章一、三)。

 中臣姓が祭祀職、秦姓が技術職の世襲の名で、政界に出るときには藤原姓 に変えているのは、相続地の問題をクリアしたものと捉えられる(四十六章十六〜十八)。

 古代宮都は東西南北に整然と仕切られていた(四十八章全体)。

 平城京の北方、平安京の北方には不浄を入れない禁苑があり(四十五章一 〜三)、その南から大内裏が形成され、祭司と官僚機関があった(四十五章三〜五)。また宮都の中に在る者は、ひどく虐げられることはなかった(四十五章六 〜八)。

 天武天皇の企画した藤原京は、ほぼ正方形をしており、東西南北の各面に は三門づつ計十二門が配されていた(四十八章三十〜三十五)。

 平安京大内裏の南東に、豊かな地下水が湧き出る土地があり、神泉苑とさ れた。自然が残されて多くの種類の植物が茂り、水鳥も多くいた。天皇の避暑のための行幸地となり、都が日照りで渇水したときなどには民衆のために門が開け られた。これは、ヤーヴェの約束した癒しの湧水地としての性格のものだった(四十七章一〜十二)のではないか。

 律令位階制度は、上厚下簿のシステムであった。位階による官人の特別優 遇は、給与、税制、裁判にまで及び、本人ばかりか一族まで恩恵を受けていた。また、五位以上の貴族は常に同じ門閥から再生産されるシステム(蔭位の制)に なっていた。官人の役所における仕事は概ね午前中だけであり、租税と労役に苦しむ一般民衆とは極楽と地獄の開きであった。これは異邦人との差を明らかにし たものと捉えられる(四十四章九〜十八)。

 奈良時代から平安時代に変わるにつれ、上厚下簿の傾向がより強まった が、高下貴賤の差を神の指示に基づくものとして、古来から神を堅持してきた血と素性の知れた家柄を高位に維持するシステムを作ったものとみられる。

 また、畿内では、諸税のうち「庸」が免除「調」が半納される民政上の優 遇措置があったが、これは中国のように都の場所によって範囲が変動するものではなかった。つまり、カバラの結界の許に在る者を高く、それ以外を低くして、 民衆におのずと神に選ばれた民の自覚を与えようとしたのであろう(四十七章十三〜四十八章全体)。

 新天地のエルサレム造りは、律令国家の完成を以て贖われると考えられた ようだ。その筋書きを書き、指針を積極的に与えたのは天武天皇であったろう。カバラに通ずる秘書、古事記を編纂されたからである。その基礎はカバラ行者た ちの修業の地(後述)の入り口にあたる吉野での隠遁時代に培われたのではないだろうか。

 なお、エゼキエル預言は、唯物主義、科学万能主義の今においても、ロマ ンのあるテーマである。というのも、現在が科学の進歩の末、環境破壊を押し止められなくなった黙示録の時代でもあるからだ。

 イスラエルは外部の批判をもろともせず、日夜大量のユダヤ入植政策を推 し進め、預言成就の下地造りに懸命であるし、実体調査に懸命なユダヤ民族調査団は、日本における失われたユダヤ支族の消息の確たる証拠を求めて奔走してい たと聞く。

 そして、日猶同源が灰色という段階にある時、それに黒のとどめを刺すの が掲出した古代祭祀霊場の描く図形群なのである。そんな荒唐無稽な話を誰が信じるのだろうかと思われるかも知れないが、絶対思考の彼らであれば、鬼の首を 取ったように思うに違いない。


ユダヤ人渡来に関する諸論

 さて、近年に至っては、M・トケイヤーが信仰上の習俗、祭りにおいて、 様々な類似点を挙げている。

1、山を神の座と仰ぐ日本修験道と、山の頂を聖地とする古代ユダヤの宗教 性の類似

2、八坂神社、平安神宮などの朱塗の古代ユダヤ神殿のものとの共通性

3、神社の狛犬とユダヤ神殿前のライオン像の共通性

4、生後30日目に赤子を初詣でさせる習慣は日本とユダヤだけ

5、塩で身を清めるみそぎの習慣も日本とユダヤだけ

6、日本の神官と古代ユダヤの僧侶の服装の類似

7、日本のお守りとユダヤのメズサ(護符)の伝統の類似

8、皇室の菊の紋章と、古代ユダヤ神殿の嘆きの壁の菊の紋章の符合

9、山伏(修験者)の兎巾と、ユダヤ教信徒のヒラクリティーの類似(これ 関しては、特に表1・2にまとめてみた)




10、京都太秦の秦河勝にまつわる大酒神社がダビデを意味し、広隆寺横の いさら井(イスラエルの意)などの史蹟が古代ユダヤ人の居留地をかもす(この太秦と秦氏ユダヤ起源説に関しては、佐伯好郎氏の「太秦を論ず」が著名となっ た)

 また、北九州におけるユダヤ人定着についての次のような研究家の諸説が ある。

1、北九州の宇佐文化圏にある重籐遺跡で発見された2〜3万トンもの鉄滓 跡は、古代に一大精錬所があったことを物語り、ソロモン時代の赤土を精練して鉄をとる方法と同じである

 王の命でタルシン船団で遠洋航海したヘブライ人、鉄の民ヒッタイト人、 航海術に長けたフェニキア人でなる一団がマレー、海南島などに製鉄拠点を築いた後、渡って来たものと考えられている。(*19)

2、北九州一帯から西日本、中部にかけての謎の岩文字(ペトログラフ)は 現在までに七十箇所六百点以上見付かっているが、シュメール古拙文字なる絵文字である

 シュメール文化を引き継いだヒッタイト人によるものと解釈されている。 (*23 )

3、「隋書倭国伝」の秦王国の記載(608年)と正倉院蔵の戸籍表におけ る秦姓の人数が豊前豊後地方のユダヤ系秦氏定着の事実を物語る

 彼らの「石を以て祭る」風習が、ヤコブの石枕の故事の反映とみられるこ と、宇佐八幡宮の御神体「真薦の枕」が石枕とノアの方舟に由来することなどが言われている。
 真薦枕は、八幡神の託宣により始まったが、なぜか方舟の形をしている。託宣を 伝えた者は宇佐宮の禰宜(巫女)であるが、辛島勝姓をもつ秦族の女であり、そこにユダヤ的価値観が反映しても不思議はないという。(*19)

 より歴然としているのが、吉野ケ里遺跡近傍の鰐神社の木造りの船に枕型 の石を乗せた御神体で、その石にはユダヤのシンボルである「メノラ」が刻まれている。

4、求菩提山の伝承「求菩提山雑記」には、継体天皇の頃の狂暴な八鬼の伝 説を伝え、対応するように同山の鬼神社にカラス天狗らしい八体の像が祭られ、また求菩提資料館蔵の「太郎天曼陀羅」絵にはセム系人種特有の顔立ちの八天狗 が描かれる

 求菩提山頂には、人工的な配列の巨石、男根型の立石(ヤコブの石柱)、 女陰のような組石など、ユダヤ的な巨石信仰の跡がある他、開山以前5世紀の土器も見付かっており、秦氏のがもたらしたものに違いないとしている。 (*19)


カバラ祭祀を担った天狗、先修験者

 天狗の伝承は、北海道を除く全国に広がるが、多分に敬虔に自己修業に生 涯をかけたカバラ行者であったと筆者は考える。カバラの伝えるところによれば、相当に修業を積んだ者なら超能力(神通力)を得て天狗のように天駆けること も可能とされる。

 彼らは、日本に来た当初は体制に準ずる行動をとっていたのだろうが、為 政者たちが大規模に国体に対してカバラを適用しようと図ったのに対し、体制から離れて静かな修業の場を求めて山岳に入り、世の流れから離脱を図ったのであ ろう。前1世紀頃、パレスチナの死海西岸の洞窟で静かにカバラの瞑想修業に専念する集団があったと伝えられるように、本来の彼らの目的は、自己修業にあっ たのである。求菩提山や紀伊熊野山中には、修業のための窟が多く遺るのはそのためだ。

 だが、神武東征に係る全国的な騒乱は彼らさえも飲み込み、新旧いづれか に従った形で、ある者は大和近傍に残り、ある者は中部以北の蝦夷地に入り、あるいは人跡の及ばぬ山地に入ったものと解される。

 前者は、行動を共にした以上、畿内の山岳地帯で修業する理想と引き替え に、大和朝廷から国体レベルのカバラ祭祀に特別な関与を命じられたに違いない。
 なぜなら、畿内の菱十字型、正近似五角形の中に、天狗伝承の地としては北か ら、天狗岳、鞍馬山、伊吹山、竹生島、愛宕山、八日市、大峰山系、大台が原、少し外れて多度山と実に多く存在し、南北ライン上に都合3つ、セフィラ(球) 上に2つまでが位置しているからである。これは、日本の他の地域に比べ、圧倒的な密度である。

 だが、やがて彼らは、朝廷から反骨分子として疎んぜられ、かといって尋 常でない能力を恐れられて敬遠され、異端の天狗として畏れ憚られることになったのだろう。

 では、ユダヤ結集の先駆けたる大和朝廷がこれを敬遠しだしたというのだ ろうか。その理由は、彼等の非妥協性もさることながら、政策の転換によると考えられる。

 継体帝の擁立において、皇統の断裂論議がなされることがある。それが原 因かどうかは分からないが、先述の求菩提山の天狗に初めて迫害が及んだ記事を見ることができる。また、この頃から大陸文化の摂取が盛んとなってくる。

 これは、当初あったとみられる自国の秘教カバラを見限る動きと考えられ なくもなく、またそれとともに歴史も鮮明度を増してくるのである。

第一章・了








菱十字をつくる上下の二等辺三角形は、エジプト・ピラミッドの側面幾何学をほぼ正確に示している。




































ここで重要なのは、地球の諸元を基にした距離規格が、祭祀霊場を布石するときに用いられていること、および、古代中東における神聖幾何学が極力用いられよ うとした形跡が見られることである。









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